長野県松本市のシンボル「松本城」は、黒と白の対比が見事な5重6階の天守がそびえる名城です。

全国に12城しか残されていない現存天守(江戸時代以前に築城された現存する天守)のうちの一つで、国宝に指定されています。

今回は、松本城についてその歴史から伝説、オススメの観光ポイントやアクセスまでをご紹介します!

松本城とは?

長野県松本市にある「松本城」は、400年以上の歴史を持つ名城です。

国宝に指定されており、現存する12天守の中で、5重6階の天守を持つ城の一つでもあります。

そして現存12天守のほとんどが平山城なのに対し、松本城は当時としては珍しく平城(平地に築城)で作られました。

そのため、内堀には今も美しい天守の姿を映し出し、多くの人々を魅了しています。

ちなみに、5重6階とは外観は5階建てで、内部は6階の構造のこと。

内と外で階層が違うのは、2階部分に3階以上の建物をのせる「望楼型ぼうろうがた」という造りをした天守のため、3階部分が屋根で隠されて見えないからです。

松本城は、この5重6階の大天守だいてんしゅを中心に、乾小天守いぬいこてんしゅ・その2つを連結した渡櫓わたりやぐら辰巳附櫓たつみつけやぐら月見櫓つきみやぐらの5つの建物を複合した連結複合式となっています。

松本城の歴史と主な城主

(戦国時代初期)小笠原氏が前身の深志城を築城

松本城は、永正元年(1504年)頃に信濃守護の小笠原氏の家臣・島立しまだて氏が築いた深志城ふかしじょうが前身とされています。

深志城は、小笠原氏の林城の支城の一つとして築かれました。

しかし、天文19年(1550年)頃に甲斐の武田信玄が、小笠原長時おがさわらながときを追放。

以後約30年間、深志城は武田の信濃支配の拠点となりました。

そして天正10年(1582年)の武田氏の滅亡後、何人かの城主を経て、徳川家康の支援を受けた小笠原長時の子・貞慶さだよしがこれを奪還して「松本城」と改名します。

小笠原貞慶は城郭と城下町の建設を始めますが、天正18年(1590年)に徳川家康が豊臣秀吉の命で関東へと移封となり、小笠原氏も関東に移りました。

(戦国時代後期)石川数正に課せられた松本城築城のミッション

次に、豊臣秀吉の命で松本城に入ったのは石川数正いしかわかずまさです。

この石川数正とその子・康長やすながが、現在に残る松本城の基礎を築きました。

松本に入った石川数正は、豊臣秀吉からある命令を受けます。

それは、周囲の甲府城・上田城・沼田城などともに、江戸にいる徳川家康を監視する江戸包囲網の一つとなる城を築くことです。

万が一、徳川家康が大坂へ攻めてきたときには、この一帯を防衛ラインとするため、戦うことを想定した強い城を作る必要がありました。

このとき、石川数正はある強い決意をもって松本城の築城に臨んでいたといいます。

実は石川数正はもともと徳川家康の重臣だったのですが、豊臣秀吉からの誘いを受けて突然、徳川家康の元を去り、豊臣秀吉の家臣に鞍替えしていたのです。

石川数正としては徳川家康を監視する立派な城を築くことで、新しい主君である豊臣秀吉根に忠誠心を示そうとしたのでした。

その思いの元、石川数正が文禄2年(1593年)前後に築城に着手し、その子・康長がこれを引き継ぎ、大天守と乾小天守、渡櫓などを建設したとされています。

これが現在の国宝・松本城で、徳川家康を監視する城にふさわしく、平城ながらも厳重な武備を備えて威風堂々とした、実戦向きの城として作られました。

(江戸時代とその後)競売の危機を乗り越え、国宝に認定!

江戸時代に入り、石川氏が役職を取り上げられると、松本城の城主は小笠原氏、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏とめまぐるしく変わります。

松本城最後の城主となったのは戸田氏で、明治維新まで約150年続きました。

松平氏の時代に、3代将軍・徳川家光が松本城に立ち寄るという話があり、月を見るための月見櫓とそれに付随した辰巳附櫓が築かれ、現在のような5棟の連結式の城が完成します(残念ながら、将軍は立ち寄りませんでした)。

やがて時代は流れ、明治時代には天守が競売にかけられ解体の危機にさらされますが、住民らの熱心な保存運動で存続し、募金で大修理も行なわれました。

昭和11年(1936年)に天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が当時の国宝となり、昭和27年(1952年)に現在の国宝に指定されます。

そして、城郭一帯は公園として整備される一方、昭和から平成にかけて黒門や太鼓門などが復元されました。

松本城の伝説

松本城にはさまざまな伝説が伝えられてきました。

ここでは、その一部をご紹介します。

『傾いた城』伝説

明治時代に撮影されたもので、松本城天守閣が西に傾いた写真が残っています。

この天守の傾きには、ある悲劇の伝説がありました。

江戸時代、藩の年貢の引き上げに苦しんだ多くの農民たちが、年貢を減らしてほしいと松本に押し寄せます。

藩は仕方なく“2斗5升に引き下げる”と伝えますが、農民の中心となった多田加助ただかすけらは騒動を引き起こした罪で処刑されることになりました。

その処刑の日、多田加助は年貢の引き下げが中止となったことを知り、恨みのあまり、「2斗5升」と叫びながら天守閣を睨みつけたのです。

その瞬間、地響きが鳴り天守がガタッと傾いたといいます。

その後、江戸時代に何度修理しても傾きは直らなかったそうです。

何とも痛ましい伝説ですが、現在ではこの傾きは西側の柱が古くなって天守の重みを支えきれなくなったことが原因だったとされています。

当時の加助の恨みの凄まじさが、傾いた伝説となったのでしょう。

そのほかの松本城の伝説

はりを伸ばした伝説
松本城の天守を作っていた時の話です。

いよいよ天守組み立てという時、柱と柱を固定する梁が15㎝ほど短いことがわかり、一同は青ざめます。

そこへある大工が「オレが梁を伸ばしてやろう!」というと、梁の両端に縄を結んで100人の大工に引っ張らせ、自分は木槌きづちで数回、トントントンと梁を叩きました。

すると15㎝ほど梁が伸び、無事に天守を完成させることができたのです!

この大工は、大工仲間から名人だと一目置かれたのだとか。

二十六夜神伝説
ある武士が夜中、天守の警備をしていた時のことです。

武士の目の前に美しいお姫様が現れ、「二十六夜神様をまつれば城は栄えるでしょう」と伝え、消えました。

武士からこの話を聞いた城主は、天守の6階の梁に二十六夜神様をお祀りします。

その後、本丸御殿が焼けた火災が起きた時にも天守は焼けませんでした。

これは二十六夜神様のご加護だったとも伝えられています。

松本城の特徴と魅力

北アルプスを借景にした黒と白のコントラストの城

松本城の天守は、黒と白のコントラストが美しい造りも特徴です。

とくに、雄大なアルプスの景色の中に漆黒と白の天守が凛々しく映え、重厚感と品格ある佇まいを見せています。

この黒と白の対比は、上半分の漆喰しっくいを塗り固めた白壁と、下半分の漆喰の上に黒い漆塗の「下見板張りしたみいたばり」で覆った造りから生み出されたものです。

そのため、松本城は黒い漆塗りから“漆黒の城”という印象があるでしょう。

実はこのように、全国には白い城と黒い城があり、どちらかというと豊臣時代に造られた城は黒い城、徳川時代に造られた城は白い城というイメージがあるようです。

松本城も豊臣秀吉に仕えた石川数正が築いた城のため黒い城だった……といわれることもあります。

ただし、豊臣系の大名がすべて黒い城というわけではなかったようです。

戦国時代に黒い城が多いのは、風雨から城を守るため下見板張りが使われることが多かったためとされています。

江戸時代になると強い漆喰を作る技術が進歩したため、耐火性の高い漆喰が普及して白い城が増えたという技術的な理由も大きかったようです。

戦闘用の天守と優雅な櫓が融合

松本城は、様相が異なる2種類の天守と櫓が複合された“天守群”も特徴の一つです。

大天守・乾小天守・渡櫓は、戦国~江戸時代初期にかけて徳川家康を監視する目的で作られました。

そのため装飾は少なく、狭間さまと呼ばれる弓や鉄砲で攻撃するための小さな窓を多数設けるなど、戦いを目的として造られた実戦向きの建物となっています。

一方で、月見櫓は平和な時代に月を見るために作られました。

戦いのための備えはなく、赤い欄干を施し、窓も大きく開放的な雰囲気をもつ風雅さを重視した造りです。

このように、戦いのための天守と優雅な櫓が複合した天守群が残るのは全国でも松本城のみとされており、ぜひ注目してほしいポイントです!

通し柱で高層化を可能にした技術

松本城は6階建てという高層建築ですが、これを可能にしているのは“通し柱”です。

通し柱とは、階をまたいだ柱のことで、松本城では1~2階、3~4階、5~6階に設置されています。

通し柱を使ったブロック工法で2階建てを作り、それを順に上に乗せる方法で高層建築を実現しました。

特に3階では、この通し柱を良く見ることができますよ♪

松本城の観光と見どころ

堅固な天守

前述したように、松本城は戦闘に備えた城として築かれました。

そのため三重の堀、門の直前で道を細くして大勢の突入を妨げる鵜の首うのくび、門を入ると四方を囲まれた枡形ますがたなど、いたるところに戦いの備えが施されています。

もちろん、戦いにおいて最後のとりでである天守にも、さまざまな工夫がありました。

天守の壁は、火縄銃の弾が貫通しないよう最大約30㎝の厚さがあり、内堀は火縄銃の有効射程距離である60mほどの幅となっていたのです。

こうして敵から撃たれても被害を抑える一方で、城内から弓や鉄砲を放って攻撃するべく、大天守と小天守、渡櫓に100ヶ所以上もの狭間(丸や三角にあいた小さな窓)が設けられていました。

これ以外にも、天守の1階にある壁面を外に張り出した「石落」では、床面の内蓋を開き、石垣をよじ上ってくる敵兵に熱湯をかけたり、銃を撃ったりして攻撃しました。

通常は石垣の両隅だけですが、松本城では中間にも石落が設けられています。

2階は武士たちが待機しておく武者たまりで、武者窓むしゃまどと呼ばれる格子状の窓があり、ここからも火縄銃を撃つことができました。

外から見えない3階は避難所、4階は有事の城主の御座所です。

5階は作戦会議を開く場所で、6階は敵を監視する役目があったと考えられています。

天守以外にもチェックしたいポイント!

黒門・太鼓門

黒門は本丸へ入る正門にあたり、格調高い門として黒門と呼ばれました。

太鼓門は北側門台上に太鼓楼があったため、その名がつけられました。

太鼓楼には鐘と太鼓がおかれ、時を告げたり、家臣に情報を伝えたりしたようです。

なお、これらの門は桝形となっており、門で敵を足止めしようとした工夫がみられます。

※桝形:二重の門と石垣や土塀に囲まれた空間で、敵の動きを封じ、上から鉄砲などを射かけて攻撃した。


本丸御殿跡・二の丸御殿跡

本丸御殿と二の丸御殿は、天守などと同じ時期に建設されたと考えられています。

本丸御殿は現在の本丸庭園の一角にあり、藩の政庁と藩主の住む場所を兼ねていました。

建坪は830坪、部屋数は60余りありましたが、享保12年(1727年)に焼失し、その後は再建されていません。

二の丸御殿は本丸御殿の焼失後に政庁となりますが、明治時代に焼失し、現在は平面に復元され見学することができます。

四季で楽しむ松本城のビュースポット♪

松本城の西側の駐車場から入っていくと、赤の埋橋うずみばしを入れたお城の姿が撮影できる人気のスポットがあります。

お城の南西側は、雑誌などにもよく登場する城の全景をとらえられる定番スポットで、春は桜、秋は紅葉が美しいのはもちろん、白と黒の対比がひときわ映える冬の雪景色のお城は絶景です!

南側から入ってアルプスの山を背景にした大天守も絵になる光景です。

また、本丸庭園からは5棟を正面から捉えて撮影することができますよ♪

松本城へのアクセス・営業時間

アクセス

所在地
〒390-0873
長野県松本市丸の内4番1号

交通機関をご利用の場合
【電車】
JR篠ノ井線「松本駅」下車 徒歩約20分

【バス】
松本周遊バス「タウンスニーカー」北コース「松本城・市役所前」下車すぐ

車をご利用の場合
長野自動車道松本ICから国道158号を松本市街地方面へ 約20分

松本城の営業時間・料金

松本城観覧券
大人 700円
小・中学生 300円

開場時間
午前8時30分から午後5時まで(最終入場時間は午後4時30分)
※年末年始を除き無休

情報は変更となる場合がございます。詳細は、公式サイトをご確認ください。

おわりに

日本が誇る国宝・松本城の歴史や見どころをご紹介しました。

松本城ではその美しい雄姿だけでなく、乱世と泰平の世の両方の時代を感じることができる造りも魅力となっています。

大天守では狭間や石落としなどを見ながら武士気分を、月見櫓では優雅な殿様気分を楽しんでみてはいかがでしょうか♪