羽根つきは、お正月の遊びとして日本では昔から親しまれてきました。

振袖を着た女の子たちが羽子板で羽根を突き合う姿は、お正月気分を実感させてくれる微笑ましい光景です。

ところで、羽根つきに使われる羽子板はどのような経緯で登場してきたかご存知でしょうか。

この記事では、羽根つきの意味や由来、羽子板登場の経緯、羽子板の歴史、羽子板の産地などについて解説します。

羽子板とは


羽子板とは、羽根をつけた落葉高木「むくろじゅ」の種を打つための、柄のある長方形の板のことです。

では、羽子板にはそもそもどのような経緯で登場してきたのでしょうか。

羽根つきの意味や、その羽根の由来とともに見て行くことにしましょう。

根つきの意味

羽根つきには、女児の無病息災を願うという意味があり行われた神事でした。

遊びの要素が強くなり、今では本来的な意味を知る人も少なくなってきているようです。

羽子板も祭礼のためのツールでしたが、押絵羽子板の登場以来、単なる装飾品として捉えられるようになったのかもしれません。

根つきの由来と羽子板登場の経緯

羽根つきは、平安時代に行われていた毬杖ぎっちょという遊びに由来するとされています。

毬杖は、先端に木製のつちが付いた木製のつえを振って木製のまりを弾き、相手方陣地にその毬を打ち込む遊びです。

この毬杖という遊びが、時を経て時代が移り変わって行くうちに変化し、杖が羽子板に、毬が羽根にそれぞれ置き換わり羽根つきに変わったと言われています。

毬が羽根に置き換えられたのは、羽根や紐のついた分銅ふんどうを蹴る遊びが中国から伝来したことが関係しているようです。

羽子板には胡鬼板こきいたという別名があり、それで突く羽根は胡鬼子こきのこと呼ばれていました。

胡鬼こき」とは古代中国では「とんぼ」を指す言葉で、羽根付きの羽根の飛ぶ様子がとんぼに似ていたことから胡鬼子こきのこと呼ばれたと言われています。

日本では古来、蚊が媒介し様々な病を引き起こすと考えられていて、蚊を食べるとんぼは病を人々から遠ざけてくれるありがたい昆虫だと みなされていました。

そのようなことから、羽子板でとんぼに似せた羽根を突く遊びは、遊びであると同時に一種の魔よけの儀式として行われるようになったとされています。

根つきの羽根の由来

羽根つきの羽根は、大きな4枚のほうを持つ落葉樹「つくばね」の実を模して作られたと言われています。

苞は、花のつぼみを包んでいた葉を指します。

もともと手でこの実を突く遊びがあり、これが毬杖という遊びに影響し中国伝来の羽根付き分銅を蹴る遊びとあいまって最終的な羽根つきの形に変わっていったと思われます。

羽根付突きで使う羽根がつくばねの実に似た形状になったのは、ここに由来しているようです。

さらに、つくばねは「羽子はご」とも呼ばれたため、つくばねを突く板を羽子板と呼ぶようになったようです。

ただ、羽根つきの羽根として使われる実は、最終的には落葉高木「むくろじゅ」の種が使われるようになりました。

というのも、むくろじゅの種は堅くて羽子板で弾くと辺りに響き渡る澄んだ音を立て、羽根つき遊びも興が乗って夢中になれる効果をもたらしてくれるからです。

また、子どもにわずらいが無いという意味の「無患子むくろじ」という言葉がありますが、むくろじゅはこの言葉に似ていることから、羽子板でむくろじゅを突く遊びは縁起がよいとされていたようです。

羽子板の歴史

安時代:由来は「毬杖」という遊び

羽根つき遊びは、平安時代の毬杖という遊びに由来するとされていますが、この時代に羽根つきという形に変わったという記録はないようです。

町時代:「羽根つき」という言葉が登場

羽根つきに関連した言葉が出て来るのは、室町時代に伏見宮貞成親王ふしみのみやさだふさしんのう(1372年 - 1456年)があらわした日記「看聞日記かんもんにっき」に「正月五日に宮中で、こきの子勝負をした」という記載があり、これが最初だとされています。

毬杖の杖が羽子板になり、毬が羽根に置き換わったのも室町時代になってからのことで、この頃に今の羽根つきと同じような様式になったとされています。

国時代:祭礼としての要素が強くなる

戦国時代になると、羽根つきは遊戯というよりは祭礼としての要素が強くなったと言われています。

そのため、羽子板は様々な装飾が施されるようになり、神事としてのはらいや縁起物としての色彩を帯びるようになったようです。

そして、正月に厄払いの魔よけとして女性に贈る習慣がこのころあったようです。

戸時代:女児の健康を祝う贈答品として広まる

江戸時代には、当初、武家の間で羽子板は女児の誕生に伴い健康を祝う贈答品として扱われるようになり、それが一般庶民にも広まって行きました。

この風習は、やがて年の瀬にめでたい縁起物の歳暮として贈られるようになったと言われています。

押絵羽子板の流行

江戸時代も元禄期以降には遊びの要素が強くなり、歌舞伎役者をモデルにした押絵羽子板が流行するようになって行きます。

押絵とは、経糸たていと緯糸よこいとを交互に交差させて織られた羽二重はぶたえと呼ばれる織物を厚紙に被せ、その中に綿を挿入して膨らませる技術です。

押絵羽子板は、この押絵の手法を使ってモデルの顔の表情を立体的に表現して作られており、緻密な描写と艶やかな色彩は庶民の多くを魅了しました。

江戸時代も後期になってくると、押絵羽子板のモデルは、歌舞伎役者に止まらず芝居の人気俳優や有名人などへと広がって行きました。

ワゴコロでは、東京都により伝統工芸品に指定されている江戸押絵羽子板を製作する工房「むさしや豊山ほうざん」の五代目の野口豊生氏の記事を取り上げているので、ぜひ合わせてご覧ください♪

羽子板の産地

押絵羽子板の産地としては、埼玉県の春日部市、埼玉市(岩槻区)が挙げられます。

特に春日部市は押絵羽子板を特産としていますが、この地が質の良い桐の産地であることから、羽子板の素材となる桐を求めて押絵師たちが多く春日部に移り住んだのが始まりだと言われています。

おわりに

今回の記事では、羽子板の種類の中でも代表的な押絵羽子板をクローズアップして説明しました。

羽子板の種類は、押絵羽子板のほかには木目込羽子板やプレス羽子板があります。

しかし、押絵羽子板は他の2つとは比較にならないほどの手間がかかっており、その出来栄えも豪華で艶やかです。

今回の記事で羽子板が登場してきた経緯を知ってもらい、あらためて日本文化の奥深さを確認していただけたら幸いです。