折れず曲がらずよく斬れる、美しくも最強の剣でもある日本刀。
強さゆえにさまざまな伝説や逸話が生み出されてきました。
では、数多く残されている日本刀の中で最も強いのは?と気になりますよね。
そこで、本記事では、伝説やエピソードをもとに最強・最高傑作の刀7本を厳選してご紹介し、さらにその中からワゴコロ編集部が選んだベスト1をご紹介します。
刀鍛冶は、日本刀を作る職人で、刀工、刀匠ともいいます。日本刀とは折り返し鍛錬など日本特有の製造方法で作られた反りのある刀で、平安末期の11~12世紀頃に成立したとされています。以降、これが日本刀の主流になり、時代の変化に応じて様々な形状、種類の刀が作られました。
【童子切安綱】酒呑童子の首を獲ったなり
武 士VS鬼!? 酒呑童子を退治した安綱
童子切安綱は二尺六寸五分(約80cm)という堂々たる大きさの刀です。
しかも名前が「童子切」です。
その刀身の姿や名前から、すでに恐ろしい雰囲気を醸し出しています。
それもそのはず童子切は、なんと平安時代、京の都を恐怖に陥れた大江山の酒呑童子という「鬼」を討ち取った伝説に基づく刀なのです。
平安時代、大江山に住む酒呑童子は京都で次々と美女をさらうなど悪事を働いていました。
帝の命で、武勇の誉れ高い源頼光が力に覚えのある家来らを引き連れ、大江山へと鬼退治に向かいます。
源頼光らは酒呑童子にまんまと酒を飲ませ、安綱をキラリと一閃。
みごとに酒呑童子の首を討ち取ったのです。
これほどの最強の刀ですからその後はもちろん源氏の足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下人の手に渡りました。
怨 念が宿る刀!?
しかし、やられた酒呑童子の怨念も凄まじかったようで、それは時を経てよみがえります。
名将の手に渡っていった童子切安綱は、江戸時代になると徳川家康の孫娘の嫁ぎ先である越前松平家へ贈られます。
しかし、この婿殿の松平忠直が突然のご乱行!乱行はこの刀に宿っていた酒呑童子の怨念がさせたのではないか!とまことしやかに噂されたとか。
封印すべきだったのかもしれませんね。
そして、この刀はその斬れ味も本物です。
江戸時代に首切り役人をやっていた山田浅右衛門によると、試し切りの際、六ツ胴(重ねた遺体を6体切断)と土壇まで切り込めたとか。
鬼だって斬れそうです…。
作刀した安綱は平安時代に活躍した最古の刀工の一人です。
現在は、東京国立博物館所蔵の国宝となっており、天下五剣の一つです。
童子切安綱は、天下五剣の中でも筆頭格とされる名刀で、現在は国宝に指定されています。大包平とともに、「日本刀の東西の横綱」とも称されてきました。今回はそんな、最上級の「武器としての力強さ」と「神秘の歴史」を兼ね備えた童子切安綱についてご紹介します。
【ニッカリ青江】ニッカリ笑う化け物をバッサリ!?
割 れた石塔
日本刀は化け物だって斬っちゃいます!
日本刀で化け物を斬った伝説はいくつかありますが、その横綱と言えば「ニッカリ青江」。
近江の国で、ある時、化け物が出るという噂を聞いた武士が退治に出かけました。
そこで子供を抱いた怪しげな女性に出くわします。
その女性は、この世のものとは思えない妖気を漂わせて武士に「ニッカリ」と気味悪く笑いながらヒタヒタ、ヒタヒタと歩み寄ってくるではありませんか。
ゾーッと泡立ちますが、さすが武士。
ひるむことなく「これがかのバケモノか」と刀でバッサリ!
翌朝、確かめに行くと、そこには真っ二つに割られた石塔(石灯籠とも)がありました。
あやかしの妖怪を斬るとは、恐るべき怪刀です。
この怪奇伝説により、備中青江派作のこの刀は、ニッカリ青江と呼ばれるようになりました。
毒 をもって毒を制す!?
ニッカリ青江は、戦国時代に柴田勝家の養子の勝敏から丹羽氏へと渡り、豊臣家へと献上されます。
豊臣秀吉は大のお気に入りだったそう。
やがて豊臣秀頼から京極氏に下賜されます。
そして下賜された先で、怪刀ゆえの働き…を見せます。
讃岐国 (香川県) 豊田郡丸亀地方を領有した藩である、丸亀藩主になった京極氏が入った丸亀城は、何かの祟りにより城主が次々と亡くなるという呪われた城でした。
しかし、京極氏がニッカリ青江を守護刀として祀ったところ、あらら不思議、祟りがピタリとおさまったとか。
怪奇界の強刀です。
ニッカリ青江は、平成に丸亀市が購入し、現在は丸亀城内にある丸亀市立資料館の所蔵にて企画展などで公開されています。
【へし切長谷部】魔王織田信長ここにあり!
織 田信長が膳棚ごと…
人を物ごと斬ったという日本刀は数あれど、その中で伝説も含めてダントツの強刀といえば、へし切長谷部です。
「へし切」といかにも怖そうな名前ですが、何とこの伝説の主は魔王とも呼ばれた織田信長。
その織田信長の怖い伝説により、名付けられたのです。
ある時、織田信長が無礼を働いた茶坊主を手討ちにしようとしたところ、茶坊主は逃げ回り、膳棚の下に逃げ込みます。
織田信長は、茶坊主を引きずり出したのかと思いきや織田信長はそんな面倒なことはしません!
なんと刀を指で抑え込むようにして、膳棚の上から棚ごと茶坊主を「グシャリ」。
頭から真っ二つに圧し切ったのです。
ひえー、織田信長が凄いのか、刀が強いのか。
織田信長渾身の荒業と刀の威力が一つになった時、思いもよらないパワーが炸裂し、最強の伝説が生まれたようです!
以来、この刀はへしきり(圧し切り)と呼ばれるようになりました。
へし切長谷部は、名工と名高い正宗の門下の一人である南北朝時代の長谷部国重の作。
長谷部国重は山城の刀工でしたが、相州伝を継承しました。
この刀も元は大太刀で、大脇差に直されています。
そんな織田信長のパワーが全開のこの刀をのちに手に入れたのは、黒田家。
へし切長谷部は中国攻めで活躍した黒田官兵衛に下賜され、福岡藩黒田家に伝えられました。
現在は国宝に指定されています。
茎の裏には黒田筑前守(官兵衛の子黒田長政)の名が彫られています。
へし切長谷部は、福岡市博物館にて所蔵され、毎年1月~2月に公開されています。
【骨喰藤四郎】近寄るな危険! 骨を砕く狂刀
人 を斬るフリだけ? 足利尊氏の秘蔵刀
骨喰という名前からして恐ろしいですよね。
骨喰藤四郎はその名の通り、骨をも砕くと恐れられた刀ですが、その斬れ味は強刀を通り越して「見るな、寄るな、触るな、危険!」の狂刀レベル。
なんと人を斬るまねをしただけで、相手の骨を砕いて殺したという由来からこの名がついたとか。
強いのか恐ろしいのか、最恐伝説を持つ一振りです。
こんな凄い刀を生み出したのは、鎌倉時代の名工粟田口吉光と伝えられます。
源頼朝から九州の大友氏に下賜されたといわれますが、吉光は鎌倉中期以降の人物なので、謎が残ります。
やがて大友氏から足利尊氏に献上されました(足利家伝来の刀説もあり)。
足利尊氏は戦陣で、この刀を振るったとも伝えられています。
数多の戦場で敵の骨を切り裂き、血しぶきを吸ったのでしょうか。
なお当時は薙刀だったとされますが、のちに脇差に直されました。
竜 王も欲した刀
その斬れ味は、一説によると神にも魅入られていたといわれます。
足利家に伝えられてきたこの刀は戦国時代、松永久秀が手に入れます。
ところが、元の持ち主の大友氏から大金に相当する謝礼と引き換えに譲れと迫られ、しぶしぶ従いました。
その刀が船で九州に運ばれる時のこと。
播磨灘にさしかかると船の周りを無数の怪しい光が現われ、船に近づいてきます。
船を守る毛利兵部少輔は、松永久秀の船団が奪い返しに来たのかと考え、「命あるかぎりこの刀は渡さない」と大声で宣言すると、パッと光は消えてなくなりました。
これを見た毛利は「名刀を欲しがると言う竜宮の竜王の仕業に違いない」と思い至ったとか。
竜王も欲したほどの刀ですから、名物好きの豊臣秀吉が見逃すはずがなく、のちに豊臣家に献上されます。
豊臣家が滅びた大坂の陣では、どさくさに紛れて姿を消しますが、悪運?も強かったようで・・・。
「堀の中から見つかった」
「盗まれて売りに出された」
「豊臣家家臣の木村重成に譲られていたのを井伊がぶんどった」
などなど、様々な説がありますが、大坂の陣で姿を消した骨喰藤四郎は無事保護されて徳川家に渡りました。
その後は、明治時代に徳川家にから豊国神社に奉納されました。
現在の所蔵者も豊国神社ですが、京都国立博物館に寄託され、ここに保管されています。
企画展などで公開されています。
【雷切丸】雷を一刀両断 勇将と雷神伝説
千 鳥から雷切丸へ
人でもモノでもあやかしでもなく、天空の光を切り裂いたのが雷切丸です。
戦国時代、九州の大友氏の重臣に、立花道雪という名将がいました。
生涯140の戦いに出て、自分が指揮した戦いでは、ほぼ無敗という武略に優れた忠義の武将として全国に名がとどろいていました。
夏の日の炎天下、立花道雪は大木の根元で昼寝をしていました。
すると急に曇り、雷雨に襲われ、雷鳴がとどろきだします。
切り裂くようにピカリっと雷が木に突き刺さるように落ちたと思った刹那、飛び起きた立花道雪は枕元に立てかけていた愛刀の千鳥を抜くや雷(雷光の中にいた雷神ともいわれます)を一刀両断しました。
雷を切り裂く白刃!にわかに信じられないかもしれませんが、刀身の切っ先あたりにある変色した疵は、その時のものともいわれます。
もはやSFレベルの剛刀に脱帽です。
以降、この刀は雷切丸と呼ばれるようになりました。
無 名が一躍ブランド刀へ
立花道雪はこの雷で足が不自由になりますが、そんなことでへこたれる武将ではありません。
武威は前にもまして勇ましく、手輿に乗って出陣して名采配をふるい、時には馬に乗って敵陣に突進したとも伝えられます。
このド迫力に雷神切り伝説が加われば怖いものなし!今度は立花道雪が雷神と敵に恐れられました。
これだけの背景があるにも関わらず、実はこの刀は無銘。
相州もので、元は大太刀だったものを刃長約58cmの脇差に直したものです。
鍛えた刀工も分からない素性不明の刀ですが、そんな経歴も何のその。
勇将の立花道雪が雷を切り裂いた逸話ゆえに、最強の名刀に躍り出たという実力一筋の刀です。
この名刀は立花道雪から養子立花宗茂に譲られ、今は立花家史料館に収蔵されています。
【虎徹】近藤勇とともに幕末を駆け抜けた
池 田屋事件で活躍した刀
新撰組局長の近藤勇と言えば、「今宵の虎徹は血に飢えている」というしびれるセリフも有名ですよね。
虎徹とは、近藤勇の愛刀、長曽弥興里(初代虎徹)のこと。
この長曽弥興里は、江戸時代に活躍した刀工の一人です。
元は金沢で有名な甲冑師でしたが、江戸に出て刀工になりました。
虎徹は反りが浅く刀身に厚みがあり、一見無骨な刀ですが、その斬れ味は・・・。
四ツ胴(重ねた死体を4体切断)斬りや、石灯籠の笠を斬った、などその鋭利さは驚くような伝説ばかり。
首切り役人である山田浅右衛門の斬れ味ランキングでは最上位の「最上大業物」の一つに位置付けられた、まさに折り紙つきの刀です。
当時の武士の憧れの刀でした。
その斬れ味を実戦で誰よりも実感したのが近藤勇でしょう。
かの池田屋事件(池田屋にいた尊王攘夷派浪士を新撰組が襲撃した事件)で、近藤勇はこの虎徹を手に、池田屋に乗り込み、浪士たちを次々に斬り伏せていったのです。
凄いのはこの後。
「永倉新八の刀は折れ、沖田総司の切っ先は折れ、藤堂平助の刀は刃こぼれがひどかったのですが、私の虎徹は無事でした」と、虎徹の強靭ぶりを養父あての手紙に記しています。
さすが虎徹!と近藤勇の満足ぶりが伝わってきます。
果 たして本物か偽物か
ところが、近藤勇の所持していた虎徹には偽物説もつきまといます。
近藤勇が果たして虎徹ほどの名刀を購入できたのかという疑問があるからです。
何よりその入手方法のあやふやさが、ややこしくしているようです。
隊士の斉藤一が古道具屋で買った無銘の刀を近藤勇が虎徹と見抜いて譲り受けた、別の刀工の刀に虎徹と銘を切ったものを入手したなど様々な説があり、偽物説プンプンなのです。
さらに、この刀を修理した研磨師まで偽物と言う始末・・・。
ただし、今では「やっぱり本物だった説」も出ており、その真相は闇の中。
しかし、後世の誰が何と言おうと、近藤勇にとっては虎徹で、最高の相棒でした。
近藤勇をそこまで惚れさせたアッパレ虎徹です。
近藤勇の虎徹の所在は不明ですが、虎徹の作品は和歌山県紀州東照宮、東京都の刀剣博物館、山口県の岩国美術館、京都国立博物館ほか各地で所蔵されており、不定期に公開されています。
【同田貫】日本刀の神髄を伝える 一殺必中の兜割り
斬 れ味に優れた質実な刀
同田貫は、肥後の同田貫を本拠とする刀工集団です。
とくに加藤清正に仕えた正国が知られています。
同田貫といえば、マンガやドラマで知られる『子連れ狼』の主人公、凄腕の刺客拝一刀の愛刀として有名になりました(ただしこちらは架空の「胴太貫」という刀です)。
もちろんこれはあくまでも架空の物語ですが、同田貫の強さは本物です。
この刀は装飾が少なく派手さはないものの、斬れ味と強度は抜群。
実用性重視で「折れず曲がらず、よく斬れる」をかなえた剛刀でした。
明 治時代の兜割
同田貫は、なんと武士の時代が終わった後に、日本刀の凄さを見せつけた逸話で有名です。
江戸時代が終わり、明治になると、武士はいわゆるリストラされ、武士の魂であった剣の技も廃れていきます。
そこで立ち上がったのが、榊原健吉です。
かつてはその剣術が将軍徳川家茂に愛された人物で、その頃は道場を開いていました。
武士の苦難を救い剣術の伝統を守ろうと、剣劇の興行「撃剣会」を始めたのです。
そんな榊原健吉の名を高めたのが1886年(あるいは1887年)、明治天皇の前で技を披露する天覧兜割でした。
斬るのは、名工の明珍が鍛えた南蛮鉄桃形兜です。
割れない兜を、何でも斬る同田貫で斬ればどうなるのか…。
気になりますよね。
まずは警視庁の剣の達人二人がこの兜割に挑みますが、刀はカンと兜にあっさり跳ね返されます。
兜の勝ちが濃厚になる中、最後に登場したのがすでに50代後半の榊原健吉。
榊原健吉が裂帛の気合いと共に、同田貫を振り下ろすと「ズカッ」。
切り口3寸5分、深さ5分(約10cm)も斬りこんだのです。
日本刀の勝利! 改めて日本刀強し、同田貫の強さを知らしめることになりました。
榊原健吉は、かつて同田貫を使って兜割に成功したことがありました。
そのこともあってか、この日のために再び同田貫を探し求めたといわれています。
なかなか見つからず、刀剣商からようやく手に入れたという説もあります。
手慣れた刀でないにも関わらず兜割りを見事成功させたのです。
本物(の剣豪)は本物(の刀)を知る!ですよね。
榊原健吉の自分が差すための刀である差料だった同田貫正次(または業次)の所在は不明ですが、同田貫は各地の博物館に所蔵され、熊本県玉名市立歴史博物館こころピアに展示されています。
同田貫正国は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、肥後で活躍した同田貫派の刀工・正国が作った刀の総称です。正国は安土桃山時代に肥後を支配した武将・加藤清正の保護を受け、「折れず曲がらず」と称えられる、実戦に強い質実剛健の刀を作りました。今回は、そんな同田貫正国についてご紹介します。
番外編【村正】徳川家を呪う妖刀か名刀か
「血を見るまでは鞘に戻らない」と恐れられた村正はあの天下人、徳川家康をビビらせた妖刀として有名です。
村正というのは、伊勢桑名の刀工集団のこと。
その斬れ味は凄まじく、業物と讃えられましたが、徳川家康はその名を聞くと震え上がったとか…。
なぜなら祖父の松平清康が家臣に殺されたのも、父松平広忠が家臣に斬られたのも、徳川家康の息子徳川信康が切腹した時に介錯したのも、すべて村正銘の刀だったのです。
徳川家康自身も幼少の頃は村正で指を切ったり、村正で傷を受けたりと危ない目に!
ここまでくると、何か徳川家に恨みでもある?と言いたいくらいに、徳川家にとっては呪いの刀としか思えませんよね。
徳川家康は「村正の刀は全部捨てよ」と命じたとか。
逆に徳川家に敵対する者にとっては縁起の良い刀となり、大坂の陣の真田幸村や江戸時代に幕府の転覆をはかった軍学者由井正雪、幕末の尊王派の志士などは村正を求めたといわれています。
ただし、三河国を本拠とした徳川家が、比較的近い伊勢国で作られる業物の村正を求めたのは当然ともいえます。
当初、村正は師匠の刀が良く売れて自分の刀が売れなかったため、刀に「なにくそ―」と怨念を込めて鍛えたとも。
それが徳川家に祟ったのでしょうか。
ただの噂と一蹴できないのは、昭和になって刀の斬れ味を科学的に測定する機械を使って測ったときのこと。
なぜか村正だけいつも数値が違ったのです。
これは…。最怖伝説は村正で決まりですね。
村正は比較的多く残されており、東京国立博物館、徳川美術館、村正の地元三重県の桑名市博物館ほか各地の美術館に所蔵されています。
靖国神社遊就館にも展示されています。
妖しい煌めきを放つ日本刀は、刀工たちが神に祈りを捧げ、精魂込めて作り上げたものです。神の魂が宿ったのか、現代からみれば信じられないような伝説を持つ刀も多く伝えられてきました。今回は「村正」をはじめとした、妖刀や魔剣など不思議な伝説を持つ日本刀についてご紹介していきます!
ワゴコロ編集部が選んだ最高傑作の刀はこれ!
ここまで最強の刀を紹介してきましたが、このなかでもベストオブレジェンド「最強」はどの刀でしょうか。
やはり最古の刀工が鍛えたともいわれる【童子切安綱】ではないでしょうか。
酒呑童子斬りという伝説や怨念云々もさることながら、六ツ胴という壮絶無比の強さ!
しかも剣豪でもあった室町幕府13代将軍足利義輝は、松永久秀らに襲撃された際、刀をとっかえひっかえながら敵に挑みましたが、そんな義輝が最後に手にしていたのはこの安綱だったという説もあります。
一千年以上、様々な伝説でその強さを刻んできた安綱は神レベルの強刀でしょう。
おわりに
この記事で紹介している「強すぎる刀」たちは全て、伝説やエピソードを軸に編集部の独断で選んだ日本刀です。
美しく強すぎるがゆえに、いつしか強靭さの中に狂気をはらみ、怨念や祟りを秘め、妖怪やモノ、雷まで斬ると言われ畏怖される存在に。
伝説が語るホレボレする強さと歴史もまた日本刀の魅力です。
日本刀は優れた武器であると同時に美しい芸術品であり、さらに日本人の精神性を象徴するものとしても受け継がれてきました。古来より武器としての強い信頼と神秘的な美しさを持つ刀剣類には神が宿ると考えられ、江戸時代、日本刀は「武士の魂」を表わすものとなりました。
2018年の紅白歌合戦に、「刀剣男士」が出場することで話題になりました。
ここ数年、日本刀に夢中になる刀剣女子と呼ばれる若い女性たちが急増し話題になっています。
このきっかけとなったのが刀剣乱舞(とうけんらんぶ)というブラウザゲーム。
刀剣男士とは、このゲームに登場する擬人化キャラクターの総称です。
日本刀を見ることができる博物館やカフェをご紹介します。
日本刀の材料になる良質な鋼、玉鋼。玉鋼は純度の高い鉄で、鍛接しやすく、熱することで硬く粘り強くなり、錆びにくく研磨しやすいという特性があります。硬さや靱性が日本刀にぴったりの奇跡の鉄ともいえます。純度の高い脆さが少ない玉鋼を使うことで薄く打ち延ばし、折り返し鍛錬することが可能になりました。
造りこみした鉄の塊を加熱して四角い棒状に叩いて伸ばす作業です。ここでだいたいの刀の寸法や姿形の原型が決まります。刀鍛冶は出来上がりの寸法を考えながら幅、長さ、厚みなどを念入りに調整します。
日本刀の研師には、刀身の断面の姿形を整え、地・刃・棟・切先など一つずつ研磨し刀の切れ味をよくすることに加えて、その刀の持つ本来の美しい姿、持ち味を最大限引き出し、一番よく見えるように表現していく役割があります。この記事では、研師の主な仕事である鍛錬を終えた後の刀の研ぎ方・研磨工程についてご紹介します。
刀身は刀鍛冶が作りますが、それで終わりではありません。その刀身に合わせて鞘を含めた刀装具が作られます。それらの製作は分業制で、その1人がハバキを作る白銀師です。ハバキとは刀身の根元、刀身と鍔の間に装着してある金具。鍔の上に金色の金具が装着してあるのに見覚えのある人も多いのではないでしょうか。
刀といえば、組みひも(糸)で巻いた独特のひし形模様のある、握りの部分の柄(つか)が気になる人もいるのではないでしょうか。柄の巻きや仕様も先人の知恵や工夫のもと、緻密な合理性の上に作られています。これを担うのが柄巻師。その柄巻の工程をご紹介します。
刀と言えば、それを入れる鞘も気になる人がいるのではないでしょうか。黒、朱色、金色など色鮮やかで、さらに文様が施されたり、漆塗りの豪華なものまであります。色がついたような鞘をとくに拵といいます。
刀には刀身以外にも多くの金具があります。その1つ、ハバキは主に白銀師が製作します。もう1つ重要な金具が刀の柄と刀身の間にはめているわっか状の金属です。これが鍔です。敵を突いた時に自分の手が刃の方にすべらないように防ぐストッパーです。この鍔で刀の重さを調整して切れ味を良くすることもあったようです。