和泉守兼定いずみのかみかねさだ」は、江戸時代末期に会津の刀匠・11代和泉守兼定が作った刀で、幕末に新選組副長として活躍した土方歳三ひじかたとしぞうの最後の佩刀はいとうとして知られています。

土方歳三は戊辰ぼしん戦争でこの「和泉守兼定」を腰に差しながら奮戦し、最後の日々を共にしました。

その激戦を伝えるかのように、「和泉守兼定」の物打ち部分にはいくつもの刃こぼれがあったそうです。

土方歳三の遺品として生家に届けられた「和泉守兼定」は現在、東京都日野市の市指定文化財に認定され、土方家の生家跡にある土方歳三資料館に所蔵されています。

今回は土方歳三が愛した「和泉守兼定」の特徴や作者、土方歳三との関わりのほか、今話題のゲームである刀剣乱舞との関連についてもあわせてご紹介します。

※物打ち:実際に刀で切りつけるときに使う部分。先端から少々下の部分を呼ぶ。

和泉守兼定とは

和泉守兼定の刀剣の基本データは、以下の通りです。

刃長70.3cm
反り1.2cm
作刀者11代和泉守兼定(12代説もあり)
表:和泉守兼定 裏:慶応三年二月日
現在の所蔵土方歳三資料館

「和泉守兼定」という刀剣は、慶応3年(1867年)に会津の刀匠・11代和泉守兼定によって作られた一振で、刀匠名がそのまま刀剣の名になりました。

この刀は、京都守護職についていた会津藩主・松平容保まつだいらかたもりから、京都の治安を守っていた新選組副長の土方歳三に下賜されたといわれています。

以降、土方歳三は戦死するまでの約2年間、「和泉守兼定」を愛用し数々の実戦で用いたようです。

土方歳三の死後、生家に届けられたこの刀剣の物打ちには壮絶な戦いを物語るかのごとく複数の刃こぼれがありました。

昭和の初めに磨かれたため、現在は刃こぼれは見られませんが、かわりに物打ち部分が少し薄くなっています。

この和泉守兼定は江戸末期に流行した反りの浅い直刀で、質実にしてバランスが良く、機能美に優れている刀です。

刀身はまっすぐの柾目まさめ※1鍛えの地鉄で、波状の模様が乱れたの目乱れの刃文が見られます。

鞘は会津塗による凸凹のある石目塗いしめぬり※2で、渋い朱色の中に描かれている鳳凰と牡丹のモチーフが印象的です。

※1柾目:木目の種類で、縦方向に真っ直ぐな模様のこと。
※2石目塗:漆の表面を凸凹にして、石の肌目のようなざらつきの質感を出す技法。

刀工の和泉守兼定について

兼定という名は、南北朝時代から受け継がれてきた刀匠の名前です。

刀匠の「兼定」とは?

「兼定」は南北朝時代、作刀の五大流派の一つ「美濃伝」の本拠地・美濃国関(現在の岐阜県関市)に発祥した刀匠の名前です。

この「兼定」というのは、一人の人物を指すのではなく複数の人物を指しています。

というのも、16世紀に存在した2代兼定が優れた刀匠として有名になったことで、「兼定」という名前は代々受け継がれるブランド名となっていったのです。

そして、このように有名な2代兼定は関鍛冶の第一人者に数えられ、「和泉守」という受領名を拝領しました。

名工2代兼定の打った刀は切れ味がよく、16世紀以降も多くの武将に愛用され、江戸時代には「千両兼定」と呼ばれたほど人気を博しました。

2代兼定が非常に優れた刀匠だったことは、江戸時代に刀の切れ味をランク付けした書物において、彼の打った刀が「最上大業物さいじょうおおわざもの」に選ばれていたことからもうかがうことができます。

そんな有名な2代兼定の後、4代兼定の時代になると、芦名氏に招かれて奥州会津(現在の福島県)に移り、その一派が「会津兼定」として発展していきます。

そして、この会津兼定の11代目が、土方歳三が持っていた兼定を打った人物であり、2代兼定と同様に11代会津兼定も「和泉守」という受領名を得ているため、彼も和泉守兼定と呼ばれるのです。

※受領名:武家や神職などの通称で、非公式な官職名のこと。

11代和泉守兼定が作刀した土方歳三の佩刀

関から会津に移った「兼定」は、代々会津藩お抱え刀匠として活躍し、2代和泉守兼定から約300年の時を経た江戸末期に11代兼定が登場します。

11代兼定は早くから才能を発揮し、会津藩主・松平容保の京都上洛にあわせて自身も京都に上ると、たちまち優れた刀匠として名声を得ました。

そして、30歳前後という若さながら、朝廷から2代兼定以来となる「和泉守」を受領します。

和泉守兼定は、松平容保が統括した新選組隊士のためにも刀を作りました。

和泉守兼定の作った刀は派手ではありませんが、機能美に優れていたため隊士がこぞって求めたと伝えられます。

土方歳三と和泉守兼定

新選組の副長である土方歳三もこの和泉守兼定の刀を愛用しました。

ここでは、土方歳三の経歴と和泉守兼定との関わりについてご紹介します。

土方歳三とは

土方歳三(1835年~1869年)は、江戸時代末期に幕府方の新選組の副長として活躍した隊士です。

天然理心流を学んだ土方歳三は、近藤勇こんどういさみ(のちの新選組隊長)らとともに将軍警護のために集められた浪士組に参加し、やがて京都の治安維持につとめる新選組の副長となりました。

土方歳三は組織を強化するべく、規律に背いた者は切腹させるなど新選組隊士に厳しい態度をとったため、「鬼の副長」として恐れられたといわれています。

尊攘派らを成敗した池田屋事件で名を上げた新選組でしたが、明治天皇が慶応3年(1867年)に発した王政復古の大号令によって江戸幕府が崩壊すると、土方ら新選組も戊辰戦争に身を投じ、新政府軍と戦いを繰り広げました。

しかし、旧幕府軍は次第に敗色濃厚となり、東へと追いやられていきます。

ついに函館へと辿り着いた土方歳三ら旧幕府軍は、榎本武揚えのもとたけあきと合流して五稜郭へと進み、ここで新政府軍を迎え撃つも負け、土方歳三は戦死しました。

土方歳三が愛用した和泉守兼定

土方歳三が、会津藩主で京都守護職であった松平容保から下賜されたのが「和泉守兼定」です。

和泉守兼定には、慶応3年の銘があります。

その年に下賜されたとも、翌年慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの後、会津に赴いた時に下賜されたともいわれています。

以降、土方歳三は東北から函館に至る戊辰戦争においてこの刀を腰に差して戦い、函館戦争で最期を遂げました。

土方歳三の戦死後、「和泉守兼定」を含めた遺品は、日野にある生家に届けられました。

これは、戦死を覚悟した土方歳三が用意して送り届けさせたともいわれています。

その後「和泉守兼定」は昭和40年(1965年)に、東京都日野市の市指定文化財に認定されました。

現在では、和泉守兼定は生家跡に建てられた土方歳三資料館によって所蔵されており、毎年土方歳三の命日に合わせて4~5月頃に公開されています。
※令和2年(2020年)は公開時期を変更

また、この期間以外にも、特別展などで展示される場合もあります。

土方歳三は和泉守兼定を複数所有していた?

実は、土方歳三が持っていた「和泉守兼定」は、この一振だけではなかったといわれています。

というのも、隊長の近藤勇が郷里に送った手紙の中に「池田屋事件で使った歳三の和泉守兼定は二尺八寸(約85㎝)」と書いており、現存する「和泉守兼定」(約70.3㎝)とは明らかに長さの違う別物だからです。

何よりも池田屋事件は元治元年(1864年)に起こった事件であり、現存する「和泉守兼定」はその3年あとの慶応3年(1867年)に作られた刀のため年代も合いません。

これらのことから、土方歳三は「和泉守兼定」を気に入っていたのか複数所有し、特に現存する「和泉守兼定」を最後の佩刀としたと考えられています。

ですが、土方歳三が所有したかもしれないそのほかの「和泉守兼定」の行方は不明です。

ちなみに、現存する「和泉守兼定」の柄の部分の消耗具合から、歳三の刀の握りは、両手をつば側に寄せてくっつけて握り、人差し指と親指に力を入れていたと推測されています。

これは独特な握り方ですが、実戦向きで刀を素早くコンパクトに振ることができるという利点がありました。

また、親指と人差し指に力を入れて固定させることで、歳三の得意とした相手の喉をつく「諸手突きもろてづき」戦法の正確性も高まったようです。

和泉守兼定と刀剣乱舞

日本刀を擬人化した付喪神つくもがみである刀剣男士が登場するオンラインゲームの「刀剣乱舞」。

平成27年(2015年)にリリースされて以降、幅広いメディアミックスを展開し、その人気は舞台、アニメ、映画などさまざまに広がっています。

土方歳三が愛した「和泉守兼定」も刀剣男士として登場しています。

和泉守兼定は長い黒髪を靡かせ、新選組らしい浅葱色のだんだら羽織を着こなした小粋な刀剣男士です。

同じく土方が愛用していた脇差の刀剣男士・堀川国広からは、親しみをこめて「兼さん」と呼ばれています。

和泉守兼定は刀剣乱舞の舞台やミュージカル、アニメでも活躍しています。

ミュージカルやアニメではしばしば俳句を詠む場面がありますが、これは土方歳三自身が俳句を嗜んでいたことに由来するようです。

おわりに

以上、土方歳三の遺刀としても知られる「和泉守兼定」をご紹介しました。

土方歳三は最後までこの「和泉守兼定」とともに激動の戦いを駆け抜けました。

土方歳三は新選組の中でも、戊辰戦争の最後となる函館戦争まで戦った隊士の一人です。

そんな土方歳三の遺刀でもある「和泉守兼定」は、土方歳三だけでなく、新選組の最後の戦いを見守った刀ともいえるでしょう。

そんな名刀に会いに、土方歳三資料館を訪れてみてはいかがでしょうか?