
教科書にも載っている「平等院」はお寺?神社?
それとも誰かの住居?
初詣で有名な成田山って新勝寺とは違うの?
など、疑問に思ったことありませんか?
平等院も成田山もお寺です。
同じお寺なのにどうして〇〇寺と付かない名前があるのでしょうか。
ここでは、そんなお寺の種類に関する素朴な疑問を解き明かします。
寺号による違い
お寺の名前を呼ぶときには普通は、東大寺または長谷寺と呼びます。
しかし山門や本堂には○○山○○寺と大きな表札(額=がく、扁額=へんがく、寺号額などといわれる)が掲げられています。
ほとんどの場合、「寺」の前に「山」が付いています。
また、お寺なのに知恩院や平等院など「院」が付いているところがあります。
さらに芭蕉庵などの「庵」や「坊」などもお寺に関係しています。
どうしてこんなに種類があるのでしょう。
山
山号といい、例えば延暦寺は正式には「比叡山延暦寺」です。
延暦寺の場合比叡山で創建されたため「比叡山」と付いています。
しかし、山で創建されたから山が付くとは限りません。
隅田川(大川)沿いに創建された浅草寺も「金龍山浅草寺」といいます。
実は、お寺はもともと開祖が山で修行し、創建したことから「山」の号が付いていました。
しかし最初から里で創建されたお寺もそれにならい山号を付けているのです。
浅草寺の場合は「後につけられた山号」と公式ホームページに書かれているように「金龍山」は後付けです。
基本的には「寺」が通称として使われていますが、高野山や成田山新勝寺のように山号が一般的になっている例もあります。
東大寺、法華寺、東本願寺のように山号のないお寺も存在します。
お寺の門のことを「山門」とい呼ぶルーツもここにあります。
寺
日本語では本来的に「寺」とは僧侶が住む建物のことを言います。
しかし、大昔の中国では「寺」は役所の建物の意味でした。
ある出来事がきっかけで「寺」は中国でも役所ではなく、僧侶が住む建物に使われようになったといわれています。
後漢の明帝の時代(西暦57年~75年)に、インドの僧侶が仏教を広めるため訪漢した際に、用意された宿舎が「白馬寺」だったのです。
それ以来、僧侶の住む家のことを「寺」というようになり、中国の役所に「寺」という文字が付かなくなのです。
また、現在の日本では「寺」は僧侶が住む個別の建物というより、「山」と同じように、お寺の敷地全体を指す使われ方が多くなっているようです。
読み方には、東大寺、浅草寺のように「じ」のところと、清水寺、鞍馬寺のように「でら」と読むところがあります。
その違いは単なる音読み、訓読みとの違いといわれていますが、音読みの「じ」が多くなっています。
それは中国語が音読みだからという理由のようです。
例えば、浅草寺は浅草にあるのに「せんそうじ」です。
鞍馬寺はお寺の地域は鞍馬山と呼ばれていますので、正式名称も「くらまやまくらまでら」になったといわれています。
石山寺は山号を石光山といい、音訓混在しています。
これに関してはあまり大きな意味はないことが分かります。
院
お寺は寺院ともいうように、院と寺は同等の号です。
有名な知恩院は正式には「華頂山知恩教院大谷寺」といいますが、一般的には知恩院という通称で呼ばれ、公式ホームページも「知恩院」になっています。
知恩院の場合はお寺全体の名称として「院」を使用しています。
平等院は「朝日山平等院」といい、「寺」は付いていません。
通称も含めて平等院です。
先述した浅草寺にも、実は「院」があります。
名称は「金龍山浅草寺」ですが、中心になる建物は伝法院といいます。
「院」はさまざまな使い方が混在していますが、「寺」の次に多いお寺の名称です。
一般的にはお寺の中の僧侶が住む建物を指すことが多いようです。
庵
「あん」または「いおり」と読みます。
お寺の中にあって、僧侶が住む建物です。
「院」は院政などといわれるように、僧侶の中でも権力者が住むところのようですが、「庵」は世俗を離れた僧侶が静かに暮らすところ、といったイメージです。
京都「天授庵」のようにお寺の名称として使われているところもありますが、ごくわずかです。
ほとんどが京都金福寺にある「芭蕉庵」や新潟国上寺の「五合庵」のように、お寺の敷地内にある建物を指しています。
坊

「ぼう」はお坊さんというように、僧侶そのものを指す言葉です。
お寺の建物にも「坊」と呼ばれるものあります。
修行僧が宿泊するお寺を、「宿坊」といいます。
善光寺、身延山久遠寺などには、中心になるお寺のほかにその境内に多くの小さなお寺(塔頭寺院=たっちゅうじいん※1)が集まっています。
※1 塔頭とは高僧が亡くなると、弟子たちがお墓(塔)の周囲(頭=ほとり)に小さな庵を建てて、墓を守ったことから始まったといわれています。
その多くが坊です。
「房」とも書きます。
高野山にも塔頭寺院(宿坊)が多くありますが、号は「坊」ではなく、「院」になっています。
大寺院には多くの塔頭寺院があります。
寺格による種類
古来よりお寺には格(寺格)があり、それにより順列が付けられていました。
延喜式による寺格
平安時代中期に朝廷によって定められた格式、「延喜式」では、国から費用の援助を受けることができる「官寺」とその他の寺「私寺」に分けられていました。
官寺はさらに国分寺(国分尼寺)※2、定額寺、有食封寺などの格付けが記述されていますが、定額寺、有食封寺などがどのようなお寺だったは諸説あり、よく分かっていません。
※2 国分寺(国分尼寺):奈良時代の聖武天皇の命により、当時の諸国に建立されたお寺で、国分寺(国文僧寺)と尼寺である国分尼寺があります。国分寺の元締め、総国分寺は東大寺で、国分尼寺は法華寺です。
現在では延喜式の寺格は、各地にある国分寺(国分尼寺)や遺跡にその痕跡が残っています。
五山制度による寺格

「五山」は鎌倉時代後期に幕府が定めた寺格で、鎌倉にある臨済宗の制度です。
臨済宗は鎌倉幕府が庇護した宗派で、現在では神奈川県鎌倉市に建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄明寺が「鎌倉五山※3」として残っています。
※3 五山は最上格のお寺ですが、その中でも第1位から第5位まで格づけられています。
第1位 建長寺、第2位 円覚寺
室町時代に入り、幕府は京都を中心に上から「五山
対象はやはり幕府が保護した臨済宗のお寺で、現在では京都にある南禅寺・天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺が「京都五山※4」として残っています。
※4第1位 天竜寺
室町幕府は鎌倉五山と京都五山を束ねるお寺として南禅寺
本末制度
江戸時代には本山・末寺という寺格制度が導入され、現在の原型ができあがりました。
これにより、宗派ごとに本山が末寺を統括するようになりました。
室町時代頃から地方の小さなお寺は主に経済的な理由で、都にあるある裕福なお寺の傘下に入ることが多くなってきます。
ここで本山と末寺の関係ができあがりました。
江戸時代の寛永9年(1632年)、10年(1633年)には幕府が本山に対し、属する全末寺名を報告することを命令し、諸宗末寺帳
これにより幕府は全国の寺院を把握し、幕府の管理下に置きました。
本山はより強固に末寺を支配することになり、本末制度は完成しました。
現在は国家による寺格制度はありませんが、ほとんどの宗派や教団が江戸時代そのままの本末制度をとっています。
本山の名称は本山、大本山、総本山、別格本山などさまざまです。
まとめ
宗派以外にも、お寺の名前や寺格にさまざまな経緯や歴史があることが分かりました。
菩提寺や近くにあるお寺をこのような側面から知るのも、面白いのではないでしょうか。