「庭園」という言葉は、実は明治の中頃から盛んに用いられるようになった、比較的新しい言葉です。

一説には近代の造園研究者である小澤圭次郎(おざわけいじろう)が英語の”garden”の訳語として用いたのが初めとされています。

そしてその「庭園」の中でも、かつて「ニワ」や「ソノ」と呼ばれていたもの※1、長い歴史の中で日本が独自に形成してきた様式のものを、一般的に「日本庭園」「和風庭園」あるいは「日本式庭園」と呼んでいます。

※1 江戸時代までは「庭園」という言葉が存在していませんでした(「庭園」の語は明治期にgardenの訳語として定着)、現在私たちが「庭園」と呼称しているものは「庭 ニワ」あるいは「苑 ソノ」と呼ばれていたのです。

日本庭園は主に、中心に配置された池、勾配(こうばい)をつける築山(つきやま)、そして様々に組み合わされた石で構成されており、自然の風景を象徴的に再現しようと試みたものです。

そしてその歴史において、浄土教や禅といった大陸から輸入された宗教思想の影響を強く受けています。

また、時代によって庭園の担い手とその用途も社会の変化とともに移り替わってきました。

このように、非常に長い年月の中で日本庭園は多彩に発展してきたため、その概念をきちんと定義することは本来非常に難しいのです。

多種多様な日本庭園

日本庭園と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、どのような光景でしょうか。

巨大な池と山々を多彩な木々で彩る、日本三名園のひとつ、兼六園(けんろくえん 石川県金沢市)を挙げる人も多いかもしれません。

10円玉でおなじみの平等院の鳳凰堂(ほうおうどう 京都府宇治市)も、それを取り囲む阿字池(あじいけ)、宇治川と周囲の山々を用いた庭園と切り離すことはできません。

虎の子渡し※2で有名な竜龍安寺(りゅうあんじ 京都府京都市)の石庭も、世界的によく知られています。

※2 虎の子渡し:虎が子を3匹生むと、その中には必ず彪(ひょう)が1匹いて他の2匹を食おうとするので、川を渡る際に子を彪と2匹だけにしないよう子の運び方に苦慮するという、生計のやりくりに苦しむことのたとえ。龍安寺の石庭=虎の子渡しというのは、誰が・いつこの呼称を始めたのかははっきりしていません。しかし、江戸時代には既に定着していました。

これら3つの日本庭園を比べてみても、それぞれの異なった特徴を持つことがわかるかと思います。

広さ11.7ヘクタールの兼六園に対し、竜龍安寺石庭は幅25メートルに奥行10メートル。

小学校のプールほどの大きさしかありません。

建物についても、平等院の庭園は鳳凰堂という建物を中心に造られていますが、兼六園では庭園が中心で、建物はそれを鑑賞するための施設です。

さらに平等院庭園・竜安寺石庭はともにお寺の境内にある庭園ですが、平等院の庭園は外からお堂を眺めるもので、竜龍安寺の石庭は逆にお堂の中から庭園を鑑賞するようになっています。

このように一言に日本庭園といっても、その構成はさまざまです。

しかし、造られた年代ごとに見ていくと、時代によって共通の形式が存在することがわかります。

上記の3つを例にすると、兼六園は江戸時代に造られた大名庭園、平等院の庭園は平安時代中期の浄土式庭園、竜安寺石庭は室町時代の枯山水に分類されるものです。

極めて多彩な日本庭園ですが、各庭園の成り立ちとその歴史を知っておくと、ぐっと理解が深まるのではないでしょうか。

日本庭園の歴史と文化

それではここで、日本庭園の歴史を簡単に振り返ってみましょう。

飛鳥時代~奈良時代においては、現存する古代の庭園がなく、発掘調査と文献の分析からかつての庭園の姿を推定していくことになります。

古代の庭園は大陸の作庭(さくてい)を参考にしており、主に飛鳥時代は新羅(現在の朝鮮半島)、奈良時代は唐を参考に多くの庭園が造られました。

平安時代になると、寝殿造(しんでんづくり)とよばれる貴族の住居と対になった庭園が流行するようになります。

また、この頃流行した浄土教の思想を具現化した、浄土庭園と呼ばれる形式の庭園も各地で造られるようになりました。

鎌倉時代から室町時代にかけて、大陸から伝えられた禅宗の流行とともに、禅の教えに基づいた庭園文化が広まっていきます。

禅宗は特に武士階級の間で流行し、日本全国に禅の影響を受けた庭園が造られました。

戦国時代が終わり、安土桃山時代から大流行した茶の文化に合わせて、露地(ろじ)と呼ばれる茶室のための庭園が造られるようになります。

茶の流行に合わせて、庭園もまた庶民にも馴染み深いものへとなっていきました。

江戸時代になると、武士の儀礼の場として庭園が用いられるようになります。

この儀礼の場としての庭園がこれまでの禅宗の庭園と融合し、周囲を回り歩きながら風景を楽しむ大規模な大名庭園が誕生しました。

明治時代の明治維新以降は、華族の別荘としての庭園が流行するようになります。

また、西洋との比較から日本庭園を再定義することが必要になり、技法や歴史が見直されていくことになります。

各時代における、より詳しい日本庭園の歴史は以下記事をご査収ください。

庭園の構成要素

庭園の構成は時代によって大きく異なりますが、ここでは主な構成要素を紹介します。

「水」
自然の風景を再現しようとする日本庭園に、水の要素は欠かせません。

水の湧き出る泉、地形に沿って流れる遣水(やりみず)、静寂をつくりだす池など、日本庭園の水は多彩にその姿を変えていきます。

「山」
庭園の中で人工的に造られた山を、築山(つきやま)といいます。

また、緩やかな勾配で野の風景を表現するものを野筋(のすじ)と呼びます。

「石組」
先述の『作庭記(さくいていき)』が石の立て方の記述から始まるように、日本庭園に最も不可欠な要素の一つで、様々な見立てが行われます。

「植物」
マツやカエデ、ヤナギといったものから、ウメ・サクラ、ツツジやバラなど四季折々の多彩な植物が用いられます。

「建物」
お寺のお堂はもちろんのこと、池に張り出す泉殿や船着き場、池に架かる橋も日本庭園を構成する大事な要素です。

日本最古の造園に関する書である『作庭記(さくていき)』には、次の一説があります。

「ある人曰く、山水をなして、石をたつる事は、ふかきこころあるべし。」

山を造るのも水の流れを決めるのも石を立てることも、すべては「ふかきこころ」あってこそ。

日本庭園の持つ奥深さは、伝統ある日本のこころそのものなのです。