能楽堂の中に入ると、建物の中にさらに屋根のついた建物がまたあります。

これが「能舞台」です。

歌を歌うコンサートホールや、劇団がミュージカルをする劇場、歌舞伎の舞台とは異なる、独特の空間です。

そんな能楽の舞台には、どんな秘密や工夫が施されているのでしょうか?

今回は、役者が美しく動き回る大切な場所、「能舞台」の構造について詳しくご紹介します!

能舞台の基本の役割

能狂言のために建てられた能舞台。

オペラ劇場の額縁舞台とは違い、非常に立体的な構造をしています。

まずは、それぞれの舞台の各所につけられた名称をご説明します。


※額縁舞台:プロセニアム・ステージと呼ばれ、客席と舞台がアーチ状の装飾で区切られているステージ。幕を下ろすと客席から舞台が完全に閉ざされる。

1 . 本舞台

「本舞台」とは、三間四方(5.5m前後)のほぼ真四角な舞台で、床にはひのきの板が客席に向かって真っすぐ縦に張られています。

演技のほとんどが、この本舞台で行われます。

2 . 後座(あとざ)

客席から見た、本舞台の奥の部分のことを「後座」といいます。

囃子方はやしかた※1後見こうけん※2が座ります。

本舞台の床板が縦に張ってあるのに対し、横に張ってあることから“横板”とも呼ばれます。


※1囃子方:能楽や歌舞伎などで、楽器を演奏する役の人。能・狂言の楽器には笛、小鼓、大鼓、太鼓があり、それぞれ専門の演奏者がいる。

※2後見:演技の進行を監督する役。演者の着替えの手伝いの他、万が一シテが演技中に倒れた場合には代役を務める役割があるため、演者が務める役である。

3 . 橋掛り(はしがかり)

後座から左奥へ伸びている、長い廊下のような場所が「橋掛り」です。

演者が出入りする通路としてだけでなく、ここで演技をする事も多いため、舞台の延長となる大切な空間です。

4 . 地謡座(じうたいざ)


動画の2:18あたりに出てくる、本舞台の右側に飛び出たスペースを「地謡座」といいます。

地謡と呼ばれる斉唱隊せいしょうたい(コーラス)の方が座る場所です。

5 . シテ柱

本舞台の四隅にはそれぞれ名前のついた太い柱があります。

「シテ柱」とは、その中で左奥の橋掛りと交差する部分にある1本です。

この柱の近くでシテが演技する事が多いことから、こう呼ばれています。


※シテ:能狂言の主役のこと。

6 . 目付柱(めつけばしら)

本舞台の左手前の柱が「目付柱」です。

客席からは舞台を遮ってしまう、少し邪魔とも思える位置にあります。

しかし、能面はとても視界が狭く、演者の目の位置と面の穴が合わない事が多いため、この柱を見ることで演者は舞台上での自分の位置を確かめることができる、大切な柱なのです。

もっとも、必ず目視で確認せずとも、舞の歩幅などで舞台上の自分の位置は分かるようですが……。

流石プロ、といったところですね!

7 . ワキ柱

本舞台の右手前が「ワキ柱」です。

ワキが座る“ワキ座”の目の前にある柱なので、こう呼ばれています。


※ワキ:能狂言の脇役のこと。

8 . 笛柱

本舞台の右奥が「笛柱」で、笛方が座る場所に近いのでこの名が付きました。

また、この柱には大役が任されており、『道成寺』を演じる際に使われる大きな鐘を吊るすための金輪が取り付けられています。


※笛方:囃子方のうち、笛を吹く人。

9 . 鏡板(かがみいた)

「鏡板」とは、舞台奥にある、正面奥は老松、右側には若竹が描かれている羽目板のことです。

常緑樹である松は古くから神聖なものとして人々の信仰を集めており、能舞台の松は奈良の春日大社にある影向ようごうの松を描いたものが始まりとも言われます。

1 0. 揚幕(あげまく)

橋掛りの突き当りに垂れている、5色あるいは3色の緞子どんすの幕が「揚幕」です。

床から1mほど引きずる長さの裾で、両端には竹を結び付けてあり、竹で幕を上げ下げします。

幕の奥には“鏡の間”という、装束をつけおわったシテが面をつけるための場所があり、揚幕があることで客席から見えないようになっています。


※緞子:あらかじめ染めておいた絹糸で織り上げた、繻子しゅす織の絹織物。

1 1. 白洲(しらす)

能舞台の外周に白い小石を敷き詰めてある場所のことを「白洲」といいます。

かつて屋外に舞台があった頃、白い石に反射する光がレフ板のように舞台を照らし、間接照明の役目を担っていたことの名残だと言われています。

1 2. 一の松、二の松、三の松

橋掛りに沿うように、客席側の白洲に等間隔に植えられた松です。

本舞台に近い方から一の松、二の松、三の松と呼び、一の松から順に小さくする事で遠近感を演出しています。

橋掛かりの反対側にも2本松が植えられており合計5本の松が橋掛りにあります。

1 3. 階(きざはし)

本舞台から正面の白洲に向かって伸びる小さな階段のこと。

江戸時代以前は、役人がここから舞台にあがり開始の合図をしたり、褒美を能役者へ渡すために舞台へあがったりしていましたが、現在は使われる事はありません。

能舞台の種類

能舞台の構造には、対置式・囲繞式いじょうしき・入れ子式の3つの種類があります。

置式

「対置式」は、屋外の能舞台と客席である屋敷の母屋が分かれており、間に白洲を挟んで対面しています。

繞式

舞台を取り囲むように客席が配置されているのが「囲繞いじょう式」です。

屋根と客席の屋根はそれぞれ外部にさらされており、東京・芝能楽堂はこの形です。

れ子式

現在、主とされる造りが「入れ子式」と呼ばれるもので、能楽堂の中に能舞台が建てられています。

能舞台の屋根の上には能楽堂の屋根があるため、外気にさらされることはありません。

空調も完備されているため、快適な環境でお能を観ることができます。

能舞台の歴史

現在では、お能を観る会場と言えば能楽堂にある能舞台(入れ子式)ですが、最初から能楽堂があったわけではありません。

実は、能が室内で演じられるようになったのは明治時代からで、それ以前はもっぱら外で行われていました。

屋外から屋内へと場所を移した能舞台には、どんな変化があったのでしょうか?

能舞台の歴史を辿たどってみましょう。

町時代前期:延元3年(1338年)~文政1年(1466年)

猿楽師として能楽を大成した親子、観阿弥・世阿弥が活躍していた時代です。

当時は、寺社や貴族のお屋敷や河原などに都度舞台を設け、仮設の舞台で能が行われていました。

世阿弥の息子が書き残した能楽の伝書『世子六十以後申楽談義ぜしろくじゅういごさるがくだんぎ』によると、舞台を中央に構え、ぐるりと取り巻くように桟敷さじきと言う観客席がありました。

そのため、鏡板かがみいたはありませんでした。

地謡座じうたいざもなく、舞台から下がった所に畳を敷いていました。

橋掛はしがかりの位置も舞台の場所によってまちまちだったようです。

そのため、始める前には舞台をよく点検し、釘が出ている箇所が無いか確認する必要がありました。

町時代後期:応仁1年(1467年)~天正1年(1573年)

室町時代後期になると、世阿弥・観阿弥親子の活躍でお能が発展したため、舞台は仮設ではなく常設へと進化します。

御成おなりといって、将軍が家臣の屋敷を訪問して主従関係を確認するという行事が盛んになり、家臣は将軍を向かえるために門や御殿を作りました。

そして御成の際、「御成能」を披露するため敷地内に能舞台が設置されました。

その後、仏へ奉納するための法楽能ほうらくのうが寺社で頻繁に上演されるようになると、仮設舞台をしばらく設置したままにした「置舞台」が登場しました。

寺社の中でも特に本願寺で多くの法楽能が上演され、京都の西本願寺・東本願寺では、現在も能舞台が確認できます。

本願寺が移転を繰り返すたびに置舞台は増え、やがて京都の六条に移り常設されるようになりました。

しかし、応仁の乱で戦乱の時代に突入すると、次第にお能の催しは減っていきます。

土桃山時代:天正1年(1573年)~慶長8年(1603年)

能楽師たちの苦難を救い、お能を再び繁栄させたのは、天下人・豊臣秀吉でした。

お能にのめりこんだ秀吉は、文禄2年(1593年)頃から日々お能の稽古に励んでいたそうで、佐賀県の名護屋城には能舞台を常設するほどでした。

また、秀吉も御成を盛んに行っていたため、常設や仮設の舞台があちこちに設けられます。

そしてこの後、出先でも上演できるよう、組み立てとバラシが簡単に行える移動式舞台が登場しました。

本願寺の坊官であり、能役者でもあった下間少進しもつましょうしんがまとめた『舞台之図』では、この頃に後座こうざ橋掛はしがかりの位置が定着した事が伺えます。

戸時代:慶長8年(1603年)~慶応3年(1867年)

その後、幕府の式楽しきがくとなったお能はますます保護され、江戸城の常設舞台では事あるごとにお能が上演されました。

幕府がお能に注力すれば、当然各藩の大名たちもお能に熱心に取り組む必要があります。

城はもちろん、参勤交代で江戸に訪れた際に滞在する藩邸にも能舞台が造られ、お能のある場所は大名同士の交流の場になりました。


※式楽:幕府の儀式に用いられる芸能のこと。

治時代以降:明治元年(1868年)~

しかし、式楽だったお能は明治維新で幕府の保護下を離れ、能楽界は上演が減り大打撃を受けました。

満足な舞台を用意できず、風呂敷をつないで幕の代わりにした事もあったようです。

シテ方が邸宅内にある舞台で、内々の稽古を知人に公開する程度に細々と続けられていました。

しかしこれが、後に常設の能楽堂が一般的になる近道でもあったようです。

練習用として屋内に設けられている舞台のため、舞台の寸法こそ正しいものの、それ以外のスペースは日常生活を行う場所でした。

観客を入れる事の無い白洲しらすは非常に狭く、橋掛はしがかりは短く、本舞台に対してギュっと角度をつけた省スペース仕様のものでした。

その後、能楽は次第に復活しましたが、江戸時代の能舞台形式には戻らず、椅子の観客席・楽屋・休憩所・トイレなどが併設された屋内タイプの能舞台が増えていきます。

そして明治14年(1881年)に、東京・芝公園内に“芝能楽堂”が常設の能楽堂として初めて誕生しました。


※シテ:能狂言の主役のこと。

能舞台に光る!細やかな工夫

お能では、アイドルのライブのようにワイヤーで宙吊りをしたり、歌舞伎のように床下から登場する、アッと驚くような舞台装置はありません。

しかし、観客からは気付かれないような、繊細な工夫が施されているのが能舞台です。

舞台の床

本舞台の床は、厚さ3cm~5㎝以上・幅30cm以上のしっかりと乾燥した檜材が使われています。

飛んだり跳ねたりする舞台なので、丈夫な床板が使われているのですね。

広さは「三間四方」と決められていますが、能楽堂によって実際のサイズは異なります。

一間の長さが地域や時代によって異なることや、三間の長さを四隅の柱の内側か柱の芯から測るかによっても完成した舞台のサイズは異なるのです。

そして能舞台の床には、バミリ(目印)などはありません。

それでも、視界の悪い面をつけて舞台上の決まった位置に立てる能楽師はさすがプロですね!

床の表面はオカラや米ぬかでピカピカに磨かれており、このおかげで能楽の基本動作でもある摺り足がスムーズに運べるのです。

さらに、客席からは気付きにくいのですが、ばちがゆっくりと転がる程度にほんの少し床が客席側に向かって下り坂になっているんです!

これは「撥転ばちころばし」と呼ばれ、演者の足運びが良く見えるための工夫なのだとか。

そんな能舞台は、土足はもちろん厳禁!

裸足で上がることも禁止されており、足袋を着用しなければ立つことが許されません。

舞台はとても神聖なのです。

実は、ヨーロッパなどバレエの劇場にも、客席に向かって前傾の傾斜があります。

こちらもまたバレエダンサーの姿を美しくみせるためだそうで、国や演じる内容は違いますが、舞台芸術に共通する思いを感じますね。

バレエなどダンスが好きな方も、一度お能を観に行ってみてはどうでしょう。

もしかしたら、能楽から表現力のアイディアが湧いてくるかも。

下の甕(かめ)

さらに、能舞台には、表からは見えない秘密があります。

実は、本舞台・後座・橋掛りの下に、直径1mほどの大きなかめが、11~13個ほど設置されているんです!

この甕は直立ではなく、口が斜め上を向くように置かれたり、宙吊りにされたりしています。

甕を置くことで不要な雑音を吸収し澄んだ音をつくる効果があると言われ、舞台全体が一体となるように甕が音響効果を担っているのです。

現在は甕を設置していない能楽堂もあるので、色々な能楽堂に行って音の響き方を聞き比べ、甕の有無を予想してみても面白いですね♪

掛り、そして奥には鏡の間

橋掛りも本舞台と同じく、緩い傾斜がついており、これを「水垂れ」と言います。

鏡の間から本舞台に向かって緩い上り坂になっているので、一歩一歩と体や役柄の重さを感じながら前へ進むのです。

昔はこの傾斜が逆で、本舞台から鏡の間へ帰る時が上り坂でした。

傾斜のない仮設舞台では足が馴染まないという演者の声も。

橋掛りには、お寺や神社の高欄こうらん※1で良く見られる地覆じふく※2が無い事も能舞台の特徴です。

これは建築としては珍しく、演者の足さばきがもっとよく見えるよう工夫するために江戸時代に変化したものです。

本舞台だけでなく橋掛りでも、演者は足のつま先まで気を抜くことはできません。

お能において、摺り足がどれほど重要であるかが分かるエピソードですね。

そして、5色の揚幕の奥には鏡の間があります。

中には大きな鏡があり、装束をつけおわったシテが葛桶かずらおけ※3に座って面をつける場所とされていますが、身支度をする楽屋の延長としての機能よりも、面を着けることで役に変身し精神を高めるための神聖な場所なのです。

揚幕は神聖な鏡の間と橋掛りを分ける結界のような役目をしているのです。

客席からは見えませんが、実は橋掛りの床は揚幕の奥にも伸びています。

鏡の間で役に入り切った演者にとって、揚幕の手前からすでに演技が始まっているのです。

「オマク」の一声で揚幕があげられ、観客前に登場していきます。


※1高欄:廊下や橋につけられる転落防止の柵の事。

※2地覆:橋の側端部で橋面より高くなった部分。高欄の基礎であり雨水の側溝の機能をもつ。

※3葛桶:蓋のついた黒漆塗の桶。能、狂言の小道具。面をつける役柄であっても、シテ以外の人は葛桶かずらおけに座ることは許されない。

「作リ物」と大切な「小道具」

リ物とは?

作リ物は、曲のテーマに合わせて使われる舞台道具で、竹を組み合わせた骨組みの上にボウジという包帯のような布を巻いて手作りしたシンプルな物です。

船や宮殿などを模しますが、写実的とは言えません。

動きも作リ物も、無駄をそぎ落とした点は能楽の神髄を表しているようですね!

作るのはなんと、シテ方の能楽師。

演者ご本人たちが作るのです。

さらに、1つの上演が終わると解体されてしまうといいます。

作リ物の種類

作リ物の種類はさまざまで、山や岩などの自然物、宮殿や社などの建築物、舟・車・輿こしなどの乗り物、井戸や鳥居などの建造物、松や桜などの立木、祈祷台や潮汲車などの道具、その他は一畳台や道成寺の鐘があります。

道成寺で使われる鐘は作リ物の中で一番大がかりで重く、演者が中に入って着替えができるようになっています。

道具とは?

舞台の度に解体せずに、あらかじめ作ってあり、保管してまた使う物です。

手に持つものと、身に着けるものがほとんどです。

小道具の種類

桃の実や鏡などの宝物、太刀や長刀などの武器、傘や柄杓などの日用品、椅子や酒樽として使われる葛桶。

そして、なんと言っても大切な小道具である扇。

月を眺めたり感情を表現したり、筆や弓など様々な物に見立てられます。

例外的にシテが持たないシーンもありますが、手に持ったり腰にさしたり懐に入れるなどして、舞台に上がる全員が携帯しています。

知っておくともっと楽しい!能舞台のおもしろ豆知識

さて、ここからは能舞台に関するトリビアです!

知っていると、お能がもっと楽しくなる、おもしろ豆知識をご紹介していきます♪

人口(きにんぐち)

地謡座の突き当りには、「貴人口」という出入口を設けている能楽堂がありますが、これは現在では使われることのない出入口です。

ではいったい、何のためにあるのでしょうか?

その字から想像される通り、貴人口は高貴な立場の人が能舞台に出入りするための扉です。

通常の出入り口である切戸口は高さが低いためかがんで通る必要があるのですが、殿様は人に頭を下げたくありません。

舞台には出たいけど頭を下げたくない殿様が、「頭を下げずに通れる扉が欲しい!」と言ったとか言わなかったとか。

生類憐みの令で有名な5代将軍の徳川綱吉はお能に大変熱心で、家臣の舞を観るだけでは満足せず、自らも舞台に上がりお能を舞っていました。

多くの能楽師を江戸城に住まわせ、伝承の途絶えた演目の復活に精を出しました。

誰のための貴人口だったのか、想像が膨らみますね。

おわりに

客席と舞台を仕切る幕が無い能舞台で、前からも横からも注目される緊張感の中、最高のパフォーマンスをしなければいけない能楽師は、とても精神力のいる仕事です。

現在の能楽堂は室内で快適に観られますが、屋外で上演される薪能たきぎのうは、自然の風や音を感じられるので、世阿弥がいた室町時代のお能や狂言の雰囲気にタイムスリップできるかもしれません。

ぜひ、屋内と屋外での両方の能楽を体験してみてください♪