海外の方に話を聞くと、日本人はシャイでおとなしい、協調性が高い、温厚である、と感じることが多いといいます。

これは、古くから日本人の心の中に、自然や伝統や他者、特に目上の方を敬い大切にする気持ちや、一歩引いて謙遜する姿勢が育まれているからではないでしょうか。

「秘すれば花」

これは世阿弥の残した言葉ですが、ここにも日本人らしい想いと現代でも通用する考え方が読み取れます。

今回は、「秘すれば花」にはどのような意味がこめられているのかを詳しくご紹介していきましょう。

「秘すれば花」とは?

秘すれば花」の意味

「秘すれば花」とは、世阿弥が書いた『風姿花伝ふうしかでん花伝書とも言われる)』という本に出てくる文章の1フレーズです。

秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず

(秘密にして隠すから花となる、隠さないと花にはならない)

直訳した部分だけ見ると、「何でも表に出すより控えめに慎ましやかな方が美しい」という意味になりますが、花伝書の中ではさらにこう続きます。

芸の流派には秘事があり、一般に公開しないから価値が上がる。
公開するとさほど意味が無くなるものである。
秘事がたいした物ではないと思う人は、本当の効果を知らないのである。


隠している物自体はそれほど重要ではないけれど、隠すことによって何か効果が生まれると説いていますね。

さらに読み進めると、

はじめから珍しい物を披露すると言うと、観客はそれを期待するのでさほど驚かないが、何も知らせずに突然珍しい物を披露すると、観客は非常に驚き盛り上がる。
人々に思いもよらぬ感動を与える事、それこそが”花”というものだ。


となります。

「秘すれば花」とは、芸事における心得を語った言葉だったのですね。

世阿弥ってどんな人?

利義満に発掘された世阿弥

では、そんな「秘すれば花」を論じた“世阿弥”とはどのような人物なのでしょうか?

室町時代に父・観阿弥の一座が京都の新熊野神社いまくまのじんじゃでお能を演じた時に、童子として出演したのがまだ幼い世阿弥でした。

それを見ていた室町幕府第3代将軍・足利義満は、世阿弥の舞にたいそう惚れ込み、これを機に側近として手元に置くようになりました。

残されている手紙※1によると、世阿弥はとんでもない美少年だったのだとか。

現代では魅力のあるアーティストに人気が出るのは普通の事ですが、この時代の芸役者の身分はとても低く、芸人が将軍に寵愛ちょうあい※2され手厚くされているのを快く思わない者もいました。

義満の寵愛を受けている子供役者が、義満に同席して同じ器を使っている。
猿楽さるがく※3演者の乞食こじき※4がこんな事をしてたいそう可愛がられている世の中はおかしい


と、陰口をたたく貴族もいたようです。

世阿弥が“乞食”呼ばわりされていたとは、衝撃ですね。

絶大な勢力を持つ3代将軍・足利義満に守られた世阿弥は、そんな陰口にも負けませんでした。

義満から二条良基にじょうよしもとという関白を紹介され、古典や連歌などの教育を施されたおかげで、世阿弥は一流の文化人になる事ができたのです。


※1 手紙:二条良基よしもとが東大寺尊勝院へ宛てた、世阿弥を褒めたたえる手紙。

※2 寵愛:特別愛し、可愛がること。特に身分の高い者が自分よりも身分の低い者を可愛がる時に使われる。

※3 猿楽:中国大陸から伝わった散楽を元にした、手品、物真似、曲芸などの様々な芸。現在の能楽の元になるもの。

※4 乞食:路上などで物乞いをする者。

動の時代を生きた世阿弥

義満という後援者のおかげで、乞食とも呼ばれる低い身分からのし上がった世阿弥ですが、いつまでも将軍の寵愛が続いたわけではありません。

義満の死後、将軍が4代目・足利義持よしもちになった時のことです。

義持は猿楽よりも田楽でんがく※1増阿弥ぞうあみを好み、6代将軍・義教よしのりの頃には世阿弥は重用されず、世阿弥の甥である音阿弥おんあみが脚光を浴びるようになりました。

音阿弥は世阿弥とは違い、お能の作品を残していません。

しかし、自身のスポンサーをみつける事など経営において世阿弥よりも才能があったと言われています。

そして永享6年(1434年)、世阿弥は京都から追放され、佐渡島に流されてしまいます。

この時、世阿弥はゆうに70歳を超えていました。

しかしその後、世阿弥を目の敵にしていた6代将軍・義教が暗殺され、世阿弥は京都に戻ります。

翌年の嘉吉3年(1443年)、80歳にして世阿弥は一生を終えました。


※1 田楽:舞踊芸能の一種。物真似をベースにしている猿楽とは違い、舞を主にした抽象的な芸。貴族に人気が出て都で流行した。

『風姿花伝』と“秘すれば花”の心構え

風姿花伝』とは

『風姿花伝』は、世阿弥が書いた本であると先に述べましたが、実はその内容は世阿弥の父である観阿弥の教えとなっています。

観阿弥が世阿弥に伝え教えていったお能の芸論を、世阿弥が子孫のために書き留め、編集した物が『風姿花伝』なのです。

まだ芸事のマニュアルが無かった時代に、世阿弥は20冊以上もの能楽書を書きました。

『風姿花伝』はそのうちの初期の頃の作品で、代々秘伝書として守られ門外不出でしたが、明治時代になってからは一般の方でも読むことが許されるようになりました。

おかげで現在では、私たちも本屋や図書館から入手して読むことができます。

しかし、なぜお能の芸事のために書かれた室町時代の指南書が、お能に関わりのない人にも長年読まれ重宝されているのでしょうか?

その理由は、世阿弥の説く、その論理が一般的にもとても役立つとされているからです。

ここからは、そんな『風姿花伝』の中からいくつかの言葉を紹介します。

立合”で大切な「男時と女時」

当時のお能は“立合たちあい”という形で上演されていました。

立合とは、それぞれの役者が舞台で芸を披露し、どちらが観客をより盛り上げて人気があったかで勝敗が決まる芸能競技のことです。

大和四座といわれる4つの座(外山とび座・坂戸座・結崎ゆうさき座・円満井えんまい座)が力を持っており、それぞれが上京して活動する事を目的に競い合っていました。

勝負事の流れを判断する基準で世阿弥が説いた言葉に「男時おどき女時めどき」というものがあります。

相手に勢いがある時が女時、自分側が優勢な時が男時です。

この波は、自分たちではどうにもできないもの。
女時(勢いが相手にある時)に勝ちに行っても状況が悪く勝てないので、あまり力まずに時を待ちましょう。
しかし、ただ待つのではなく、こちらに男時(優勢になった時)がきたら実力を発揮できるように温存しておきましょう


という教えです。

負に出る時のための「秘すれば花」

女時の耐え方についても、世阿弥はわかりやすく説いています。

「秘すれば花」は、勝負に勝つための戦略論でもありました。

立合で勝つためには、観客を盛り上げて優秀な一座だと思わせなければなりません。

そうしないと、上京するためのきっかけが得られず、一座が衰退してしまうからです。

たいした事ではなくとも、準備をしっかりとしておけば勝利を得ることができる(=花の効果が得られる)、また人を驚かせるため、飽きられてしまわないような新しく珍しい技を披露する(=秘する)必要があるのです。

女時の際に奥の手を準備しておき、自分が優勢になった男時に、一気にたたみかけて勝利を得るのです。

“乞食”と呼ばれるほどの低い身分から、3代将軍・義満に寵愛されて一気にスターへの階段を駆け上った世阿弥。

しかし、当時の情勢は激しく揺れ動き、最後には流刑にされてしまうというような時代です。

何としてでも生き残らなければならい、そのための生々しくも論理的な戦略論だったのです。

おわりに

秘すれば花、この考え方は現在でも十分に通用します。

来る日のためにコツコツと準備をし、頃合いを見計らって実力を発揮するのは、スポーツや学業、仕事にも応用が利きます。

『風姿花伝』が現代でも人気のある書籍である理由がわかったのではないでしょうか。

自分の奥の一手は何なのか、考えて準備してみるのも面白いですね。