日本でも外国からの観光客を見かけることが多くなってきました。

飲食店で食事をしていている時、隣に外国人が座っているという場面も珍しくありません。

ではそんな外国人に「歌舞伎ってどういうお芝居なの?」と聞かれ、あなたはきちんと答えられるでしょうか?

実際歌舞伎という名前だけは知っていても、説明してくださいと言われると困ってしまう人がほとんどだと思います。

そこで今回は歌舞伎の成り立ちとその歴史を代表的な役者たちを紹介しながら解説します。

歌舞伎の歴史は、今につながる演目、演出の土台となる部分です。

ぜひ最後までお付き合いください。

歌舞伎の語源は「傾く」

くとは?

歌舞伎とは後世になって用いられた「当て字」であり、その語源は「傾く(かぶく)」という動詞からきています。

傾くとは、勝手な振る舞いをする、奇抜な身なりをするということを意味します。

安土桃山時代から江戸時代の初期にかけて、若者たちが当時最先端の奇抜な格好をして街を練り歩き、徒党を組んで暴れまくったりしていました。

人々は彼らを「傾いている人=かぶき者」と呼ぶようになります。

そんなかぶき者は若者たちの憧れの的となり、彼らが茶屋に通って遊女と戯れる姿は京の都の風物詩となります。

雲の阿国の登場

するとその流行に目をつけて、かぶき者のものまねをする女性が現れます。

それが歌舞伎の祖先、「出雲の阿国」です。

そしてここから歌舞伎の歴史が始まるのです。

歌舞伎のルーツは婆娑羅、猿楽・能・狂言にさかのぼる

娑羅とは

室町時代の初期(南北朝時代)、朝廷や公家といった当時の身分秩序を否定し、派手な振る舞いや粋で華麗な服装を好む「婆娑羅ばさら」と呼ばれる美意識が生まれました。

そんな婆娑羅的美意識を持った当時の守護大名は「ばさら大名」と呼ばれ、戦国時代を経て「かぶき者」につながっていくのです。

能のルーツ猿楽

能や狂言は江戸時代までは「猿楽さるがく」と呼ばれていました。

猿楽とは奈良時代以前に中国から伝わった「伎楽ぎがく」や「散楽さんがく」を元に、日本古来の芸能やものまねなどを取り入れて発展していったものです。

舞の部分が能に発展し、滑稽な部分やものまねなどは狂言としてまとめられていきます。

楽から歌舞伎へ

そして初期の歌舞伎も元々あった芸能である猿楽を大いに取り入れます。

特に幕末から明治にかけては、歌舞伎を庶民の娯楽から「高尚」なものにするため能や狂言の演目が次々と取り入れられました。

現在でも最も人気のある演目「勧進帳(能の安宅)」や「船弁慶(能の船弁慶)」が代表で、能舞台に描かれた老松おいまつを模した松羽目舞台で演じられることから「松羽目物まつばめもの」と呼ばれます。

歌舞伎400年の歴史を彩る役者たち

長い歴史を誇る歌舞伎には、その時代を代表する名優がいます。

400年を超す歴史の間には、何度も行われた幕府の弾圧や明治維新での急速な西洋化、戦争による物資の不足や名優たちの死など、存亡の危機とも呼べるピンチが幾度となくありました。

しかしその度に逆境を跳ね返す優れた芸を持ったスーパースターが現れ、歌舞伎を再生、進化させ、今日のような世界に誇ることのできる舞台芸術にまで高めていったのです。

ここからはそんな歴史とともに、歌舞伎の進化の原動力となった代表的な役者を紹介していきます。

禄時代 荒事・和事・女形の成立

江戸時代の初期、1600年前後に出雲の阿国おくにによって始まった歌舞伎は、女歌舞伎、若衆わかしゅ歌舞伎を経て、元禄げんろく時代の頃には現代と同じ野郎歌舞伎となります。

初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)

江戸歌舞伎の創始者、現代まで続く市川宗家そうけの礎を築いた名優です。

歌舞伎における「荒事あらごと」と呼ばれる演出を確立し、また三升屋兵庫みますやひょうごのペンネームで劇作家としても活躍した、マルチな才能を誇るスーパースターです。

初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)

元禄期に上方(京大阪)で「和事」芸を確立した名優。

武士や職人が多く、男性中心の荒っぽい江戸とは対象的に、商人や公家の街上方では、優雅で上品な芸が好まれました。

藤十郎は人気劇作家近松門左衛門とタッグを組み、「傾城買いけいせいかい」と言われる女郎と二枚目の恋愛模様を写実的に描いた作品で大ヒットを連発しました。

長く名跡が途絶えていましたが、2005年に三代目中村鴈治郎がんじろうが4代目として襲名。

復活を果たしました。

化文政時代 大南北と歌舞伎十八番

文化文政時代は化政文化と呼ばれ、町人文化が花開いた時代です。

町人の娯楽の中心だった歌舞伎にも、大南北だいなんぼくと呼ばれる「東海道四谷怪談」の作者で有名な四代目鶴屋南北が現れヒット作を連発。

数々の名優とともに、歌舞伎は最盛期を迎えます。

五代目松本幸四郎

鼻が高く立派だったことから、俗に「鼻高幸四郎はなたかこうしろう」と呼ばれています。

目つきが鋭く、鼻の高い顔を活かして「実悪じつあく」と呼ばれる敵役のボスの名人と呼ばれるようになります。

最大の当たり役は「伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ」の仁木弾正にっきだんじょうで、その余りの偉大さに現代でも仁木弾正を演じる時は、五代目幸四郎の特徴だった左の眉尻のホクロを顔に描くという程です。

七代目市川團十郎

鶴屋南北と組んで「東海道四谷怪談」の民谷伊右衛門たみやいえもんといった「色悪(イケメンだが心底悪人)」のジャンルを確立した名優です。

最大の功績は市川家の「家の芸」である荒事を集大成した「歌舞伎十八番」を制定したことで、ここに加えられた新作「勧進帳かんじんちょう」は現在でも最も人気の演目となっています。

治 庶民の娯楽から天覧劇(てんらんげき)へ

明治維新・文明開化による急速な西洋化は、歌舞伎にも大きな影響を与えます。

時代考証を無視した荒唐無稽こうとうむけいな内容や、退廃的な内容は、上流階級の人や外国人に見せるのにふさわしくない!と猛批判を浴びたのです。

そこで立ち上がったのが、「団菊だんきく」と並び称される九代目市川團十郎や五代目尾上菊五郎でした。

九代目市川團十郎

その余りの偉大さに「劇聖げきせい」と呼ばれるのが九代目市川團十郎です。

猛批判に対応するために、時代考証を重視した「活歴物かつれきもの」と呼ばれる演目を上演。興行的には失敗しますが、後の演劇改良運動に実を結びます。

また歌舞伎十八番の「しばらく」など古典作品の「型」の確立に力を入れ、現在の古典歌舞伎の演出のほとんどは、この九代目市川團十郎が整備したものがベースになっています。

そして人気はあっても社会的地位は底辺にあった歌舞伎役者の地位向上に奔走。

明治20年に天覧歌舞伎(明治天皇がご覧になった)を実現し、今日の歌舞伎の地位を確立しました。

正~昭和へ 現代歌舞伎のルーツ

団菊の死後二人の残した芸を更に洗練させ、完成させたのが六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門(きくえもん)です。

今日まで続く歌舞伎は、基本的にこの二人の「型」で演じられることが多く、現代の歌舞伎界に最も影響を与えている二人と言えます。

六代目尾上菊五郎

「九代目」と言えば劇聖九代目市川團十郎を指すように、「六代目」と言えば、六代目尾上菊五郎を指すほど、現代の歌舞伎界では神格化されています。

五代目尾上菊五郎の子供として生まれ、九代目市川團十郎を師として育った六代目は、名優のハイブリッド。

特に父親譲りの「髪結新三かみゆいしんざ」や「魚屋宗五郎さかなやそうごろう」といった世話物、新演出で演じた舞踊の「藤娘ふじむすめ」や「保名やすな」などを得意としました。

現在国立劇場の正面入り口には、六代目が踊った「春興鏡獅子しゅんきょうかがみじし」の像が飾られています。

初代中村吉右衛門(なかむらきちえもん)

三代目中村歌六かろくの息子で九代目市川團十郎の教えを受け、一代で吉右衛門の名を名優と呼ばれるところまで引き上げました。

熊谷陣屋くまがいじんや」の熊谷次郎直実なおざねや「平家女護島にょごのしま」の俊寛しゅんかん、「絵本太功記えほんたいこうき」の武智光秀などの時代物から、「河内山こうちやま」の河内山宗俊(むねとし)や「極付幡随長兵衛きわめつきばんずい ちょうべえ」の幡随長兵衛といった生世話物きぜわものまで幅広い役柄を熱演。

その芸は現在、孫の二代目中村吉右衛門に受け継がれています。

和の名優 海老様ブームは歌舞伎ブームへ

戦争は歌舞伎界にも大きな傷跡を残しました。

歌舞伎座を始めとする劇場はほとんどが消失し、またGHQから「封建的な内容の歌舞伎は民主主義に悪影響を与える」として主要な演目の上演が禁止されてしまったのです。

※GHQ:連合国軍最高司令官総司令部れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶのこと。

昭和22年には全面的に上演が許可されますが、今度は戦前の名優、十五代目市村羽左衛門(うざえもん)、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門が次々と亡くなってしまいます。

歌舞伎は存亡の危機を迎えてしまったのです。

それを救ったのが、「海老さま」こと九代目市川海老蔵(後の十一代目市川團十郎)を始めとする戦後の名優たちでした。

十一代目市川團十郎

九代目市川團十郎の高弟(位の高い弟子)だった七代目松本幸四郎の長男として生まれ、後に九代目の娘婿むすめむこである市川三升さんしょう(十代目市川團十郎を追贈)の養子となります。

戦後「源氏物語」で光源氏役を演じるとその美貌から大人気となり、「海老さま」ブームを巻き起こし、歌舞伎復興のきっかけに。

昭和37年(1962年)には市川團十郎の大名跡を59年ぶりに復活、襲名し、歌舞伎を完全復活させたのです。

六代目中村歌右衛門

戦後、歌舞伎の女形の最高峰と言われるのが「大成駒おおなりこま」と呼ばれた六代目中村歌右衛門です。

五代目中村歌右衛門の次男として生まれ、初代中村吉右衛門の「吉右衛門劇団」で若女形として活躍。

雪姫、時姫、八重垣姫(やえがきひめ)の「三姫さんひめ」から、「伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ」の政岡、舞踊の「京鹿子娘道成寺きょうがのこむすめとうじょうじ」の花子まで、ありとあらゆる女形の芸を極めました。

知れば知るほど奥の深い歌舞伎の世界

歌舞伎の成り立ちと歴史について解説してきましたが、知れば知るほど奥深いのが歌舞伎の世界です。

歌舞伎役者の先祖や師匠をたどると、現代につながる歌舞伎の演出や演目といった「芸の流れ」が理解でき、きっと歌舞伎を観るのが楽しくなるはずです。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

劇場で舞台を楽しむことはもちろんのこと、「シネマ歌舞伎」を通して映画館で歌舞伎を楽しむこともできます。

定期的に、さまざまな演目が特定の映画館で上映されています。

お近くの映画館で上映されているか確認されてみてはいかがでしょうか。