外国の方に「歌舞伎ってどういうお芝居なの?」と聞かれ、あなたはきちんと答えられるでしょうか?
実際、歌舞伎という名前だけは知っていても、説明してくださいと言われると困ってしまう人がほとんどだと思います。
そこで今回は、歌舞伎の成り立ちとその歴史をわかりやすく解説し、歴史を作った代表的な役者たちを紹介します。
歌舞伎の歴史は、今に繋がる演目、演出の土台となる部分です。
ぜひ最後までお付き合いください。
そもそも「歌舞伎」とは?
「歌舞伎」とは、「音楽」、「踊り」、「芝居」の要素から成り立つ日本の伝統的な総合舞台芸術です。
「かぶき」という言葉は、奇抜で常軌を逸した恰好や行動を指す「傾く」が語源となっており、その始まりは、慶長8年(1603年)に出雲阿国という女性が音楽に合わせて派手な恰好で踊った「かぶき踊り」だと言われています。
かぶき踊りから始まったこの風俗は、「傾く」という言葉に、かぶき踊りの特徴である音楽(歌)、踊り(舞)、わざや動き(伎)といった意味を当てはめて「歌舞伎」と呼ばれるようになりました。
長い歴史があり、伝統芸能と呼ばれる歌舞伎に対して、あなたは古いものだというイメージをお持ちかもしれません。
しかし、歌舞伎の語源である「傾く」という言葉は、伝統的、古風といったイメージとはかけ離れています。
400年以上前に誕生した「かぶき踊り」は、傾くという言葉どおり奇抜な精神を取り入れながら進化し、現代まで受け継がれてきました。
なお、歌舞伎は昭和40年(1965年)に国の重要無形文化財に指定され、平成21年(2009年)にはユネスコ無形文化遺産にも登録されました。
ユネスコは、国際連合教育科学文化機関(United Nations Educational Scientific and Cultural Organization)のことです。本記事では、日本で登録されているユネスコ無形文化遺産を一覧でご紹介します。
歌舞伎400年の歴史と各時代を彩る役者たち
歌舞伎の歴史は、その始まりから現代まで、各時代を代表する役者たちによって発展してきました。
【 室町~安土桃山時代】歌舞伎の語源「傾く」
先ほどもすこし触れましたが、「歌舞伎」の語源は、奇抜な恰好や行動を指す「傾く」という言葉です。
江戸時代に誕生した「かぶき踊り」という派手な踊りが、歌舞伎の始まりとされています。
かぶき踊りが誕生した歴史の背景には、江戸時代より前の室町時代から安土桃山時代にかけての「傾く」精神の影響があると考えられています。
室町時代に朝廷や権威へ反発し、派手な恰好や行動をする婆娑羅という風潮がありました。
戦国時代末期~安土桃山時代なると、個人の美意識として奇抜な恰好や行動が「傾く」という流行になり、傾く人は「傾奇者」と呼ばれました。
【 江戸時代前期】出雲阿国の登場とかぶき踊り
奇抜な恰好の傾奇者は、安土桃山時代の終わり頃、豊臣秀吉の力が弱まってきた京都で流行しました。
鮮やかな着物をマントのように羽織ったり、水晶の数珠や十字架のネックレスを付けた人が多く現れたのです。
傾奇者の真似をしたのが「出雲阿国(以下阿国)」という女性でした。
阿国が刀や十字架を付けた男装姿で笛や鼓に合わせて歌い、踊ったのが「かぶき踊り」です。
記録によると、慶長8年(1603年)に京都の四条河原町で阿国がかぶき踊りを披露したところから始まったと考えられています。
阿国のような女性は各地に現れ、かぶき踊りは江戸時代前期に全国に広まっていきます。
【 江戸時代中期】野郎歌舞伎の誕生を経て、歌舞伎が確立
かぶき踊りは歴史とともに変化します。
●阿国の真似をした女性たちの「女歌舞伎」
●遊郭の女性たちの「遊女歌舞伎」
●成人前の男性による「若衆歌舞伎」
が誕生しましたが、世の中が乱れるという理由で江戸幕府に禁止されてしまいます。
そこで成人した男性による「野郎歌舞伎」が誕生します。
江戸時代の中期である元禄時代には、東京での「江戸歌舞伎」、京都や大阪での「上方歌舞伎」が確立されます。
この頃には、初代市川團十郎や初代坂田藤十郎など、江戸歌舞伎や上方歌舞伎を語る上で外すことができない役者が活躍しました。
「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」とは、未成年の男の子である“前髪”の美少年に女装をさせて舞い踊らせる形態の歌舞伎です。江戸時代初期、女歌舞伎の禁止後に盛んになるものの承応元年(1652年)に禁止されました。今回は、若衆歌舞伎の歴史から禁止に至った経緯、そして、現代の歌舞伎に通じる芸の中身について詳しく解説します。
初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)
初代市川團十郎は、江戸歌舞伎を代表する特別な存在です。
江戸歌舞伎の創始者で、現代まで続く市川宗家の礎を築いた名優です。
「荒事」と呼ばれる超人的な力を持つ役に扮する演出を確立し、人々の心を掴みました。
また三升屋兵庫のペンネームで劇作家としても活躍した、マルチな才能を誇るスーパースターです。
初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)
初代坂田藤十郎は、上方歌舞伎を代表する役者です。
元禄期に上方(京・大阪)で「和事」と呼ばれる優美で上品な演技を確立しました。
武士や職人が多く、男性中心の荒っぽい江戸とは対象的に、商人や公家の街上方では、優雅で上品な芸が好まれました。
藤十郎は人気劇作家・近松門左衛門とタッグを組み、「傾城買い」といわれる女郎と二枚目の恋愛模様を写実的に描いた作品で大ヒットを連発しました。
坂田藤十郎という名跡は、江戸時代より長く途絶えていました。
時は過ぎ平成17年(2005年)、三代目中村鴈治郎が4代目坂田藤十郎を襲名。
およそ230年ぶりとなる現代に、その大名跡の復活が果たされました。
残念ながら令和2年(2020年)、4代目坂田藤十郎が亡くなったことで、令和6年(2024年)現在、名跡が途絶えている状態です。
【 江戸時代後期】江戸を描いた作品が人気に
町人文化が栄えた江戸時代の後期には、四代目鶴屋南北という作家によって、歌舞伎の名作が次々と生まれました。
南北の作品には「生世話」と呼ばれる江戸の庶民のリアルな生活や、『東海道四谷怪談』などの実際に起こった事件が描かれ、話題となりました。
この人気作家の南北とタッグを組んで歌舞伎を盛り上げたのが五代目松本幸四郎、七代目市川團十郎といった名役者が名を馳せました。
五代目松本幸四郎
鼻が高く立派だったことから、俗に「鼻高幸四郎」とも呼ばれた五代目松本幸四郎。
目つきが鋭く、鼻の高い顔を活かしてラスボス的な悪役である「実悪」を得意としました。
最大の当たり役は『伽羅先代萩』の仁木弾正で、その余りの偉大さに現代でも仁木弾正を演じる役者は、眉にほくろがあった幸四郎に敬意を払い、同じようにホクロを描いています。
七代目市川團十郎
七代目市川團十郎は色気のある悪役を得意とし、鶴屋南北と組んで「東海道四谷怪談」の民谷伊右衛門といった「色悪(イケメンだが心底悪人)」というジャンルを確立した名優です。
最大の功績は市川家の「家の芸」である荒事を集大成した「歌舞伎十八番」を制定したことです。
中でも『助六』・『勧進帳』・『暫』の三番は特に上演回数が多い演目となっており、現在でも演じられています。
市川宗家に伝わる得意演目(家の芸)である以下の18演目の総称を『歌舞妓狂言組十八番』といい、その略称を『歌舞伎十八番』という。
1.不破(ふわ)
2.鳴神(なるかみ)
3.暫(しばらく)
4.不動(ふどう)
5.嫐(うわなり)
6.象引(ぞうひき)
7.勧進帳(かんじんちょう)
8.助六(すけろく)
9.外郎売(ういろううり)
10.矢の根(やのね)
11.押戻(おしもどし)
12.景清(かげきよ)
13.関羽(かんう)
14.七つ面(ななつめん)
15.毛抜(けぬき)
16.解脱(げだつ)
17.蛇柳(じゃやなぎ)
18.鎌髭(かまひげ)
【 明治時代】歌舞伎座の誕生
明治維新・文明開化による急速な西洋化は、歌舞伎の歴史にも影響を与えました。
時代考証を無視した荒唐無稽な内容や、退廃的な内容は、上流階級の人や外国人に見せるのにふさわしくない!と猛批判を浴びたのです。
そこで立ち上がったのが、「団菊」と並び称される九代目市川團十郎や五代目尾上菊五郎でした。
庶民の娯楽でもあった歌舞伎を近代社会にふさわしい内容に改めようという「演劇改良運動」が起こり、歌舞伎を取り巻く環境は変わります。
明治20年(1887年)には明治天皇が歌舞伎をご覧になる『天覧歌舞伎』が行われ、明治22年(1889年)には歌舞伎座が誕生しました。
九代目市川團十郎
九代目市川團十郎は「劇聖」と呼ばれる偉大な存在です。
歌舞伎を批判する声に応えるため、正確な時代考証に基づいた『活歴物』を上演しました。
興行的には失敗しますが、後の演劇改良運動に実を結びます。
また歌舞伎十八番の『暫』など古典作品の「型」の確立に力を入れ、現在の古典歌舞伎の演出のほとんどは、この九代目市川團十郎が整備したものがベースになっています。
そして、人気はあっても社会的地位は底辺にあった歌舞伎役者の地位向上に奔走。
明治20年(1887年)に天覧歌舞伎(明治天皇がご覧になった)を実現し、今日の歌舞伎の地位を確立しました。
現在の浅草にある浅草寺の境内には、九代目團十郎を称える銅像が建てられています。
【 大正~昭和】現代歌舞伎のルーツ
団菊の死後二人の残した芸を更に洗練させ、完成させたのが六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門です。
彼らが活躍した大正から昭和にかけては、歌舞伎の歴史上「菊吉時代」と言われています。
菊五郎、吉右衛門が遺した教えは今現在も守られており、基本的にこの二人の「型」で演じられることが多く、まさに現代歌舞伎のルーツと言えるでしょう。
六代目尾上菊五郎
「九代目」と言えば劇聖九代目市川團十郎を指すように、「六代目」と言えば六代目尾上菊五郎を指すほど、現代の歌舞伎界では神格化されています。
五代目尾上菊五郎の子供として生まれ、九代目市川團十郎を師として育った六代目は、名優のハイブリッド。
六代目は踊りに長けており、特に父親譲りの『髪結新三』や『魚屋宗五郎』といった世話物、新演出で演じた舞踊の『藤娘』や『保名』などを得意としました。
なお、建て替えのため令和5年(2023年)から閉場している国立劇場の正面入口には、六代目が踊る『春興鏡獅子鏡獅子』という演目の像が飾られていました。
俳優であり、歌舞伎役者の二代目尾上右近は、六代目のひ孫にあたります。
初代中村吉右衛門(なかむらきちえもん)
初代中村吉右衛門は、三代目中村歌六の息子で九代目市川團十郎の教えを受け、一代で吉右衛門の名を名優と呼ばれるところまで引き上げました。
「熊谷陣屋」の熊谷次郎直実や「平家女護島」の俊寛、「絵本太功記」の武智光秀などの時代物から、「河内山」の河内山宗俊や「極付幡随長兵衛」の幡随長兵衛といった生世話物まで幅広い役柄を熱演。
その芸は現在、孫の二代目中村吉右衛門に受け継がれています。
また、吉右衛門は自分が得意とする演目を「秀山十種」として制定しました。
吉右衛門の功績を称えた「秀山祭」という公演が、今現在、毎年のように開催されています。
当代・十代目松本幸四郎は、吉右衛門のひ孫にあたります。
【 昭和】歌舞伎存亡の危機からの復興
昭和になると、第二次世界大戦で日本が敗戦したことにより、歌舞伎の歴史も大きく動きます。
歌舞伎座を始めとする劇場はほとんどが消失し、またGHQ※から「封建的な内容の歌舞伎は民主主義に悪影響を与える」として主要な演目の上演が禁止されてしまったのです。
昭和22年(1947年)には全面的に上演が許可されますが、今度は戦前の名優、十五代目市村羽左衛門、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門が次々と亡くなってしまいます。
歌舞伎は存亡の危機を迎えてしまったのです。
それを救ったのが、「海老さま」こと九代目市川海老蔵(後の十一代目市川團十郎)、六代目中村歌右衛門を始めとする戦後の名優たちでした。
※GHQ:連合国軍最高司令官総司令部のこと。
十一代目市川團十郎
十一代目市川團十郎は、戦後の歌舞伎を代表する一人です。
九代目市川團十郎の高弟(位の高い弟子)だった七代目松本幸四郎の長男として生まれ、後に九代目の娘婿である市川三升(十代目市川團十郎を追贈)の養子となります。
戦後、『源氏物語』の光源氏役が大当たり!
その美貌から大人気となり「花の海老さま」ブームを巻き起こし、歌舞伎復興のきっかけを作り、歌舞伎の危機を救いました。
昭和37年(1962年)には市川團十郎の大名跡を59年ぶりに復活、襲名し、歌舞伎を完全復活させたのです。
当代(十三代目)團十郎は十一代目の孫にあたります。
六代目中村歌右衛門
戦後、歌舞伎の女形の最高峰と言われるのが「大成駒」と呼ばれた六代目中村歌右衛門です。
五代目中村歌右衛門の次男として生まれ、初代中村吉右衛門の「吉右衛門劇団」で若女形として活躍。
雪姫、時姫、八重垣姫の「三姫」から、「伽羅先代萩」の政岡、舞踊の「京鹿子娘道成寺」の花子まで、ありとあらゆる女形の芸を極めました。
日本国内のみならず、アメリカやイギリス、フランス、ドイツなどで海外公演を行い、歌舞伎の普及に貢献しました。
日本でも外国からの観光客を見かけることが多くなってきました。
飲食店で食事をしていている時、隣に外国人が座っているという場面も珍しくありません。
ではそんな外国人に「歌舞伎ってどういうお芝居なの?」と聞かれ、あなたはきちんと答えられるでしょうか?
名跡とは、先祖代々受け継がれている家名や名前のことです。歌舞伎役者の名前には一定のルールがあります。例えば市川團十郎、市川海老蔵という名前をお弟子さんが名乗ることはできません。市川家の跡継ぎ、御曹司でなければ名乗ることができないのです。
歌舞伎芝居は、江戸時代のニュースとワイドショーを兼ねた舞台芸術。
古来、当時世間を賑わせていた事件を演劇にし、江戸の大衆に伝えていました。
芝居、という字のごとく、まさに芝の上でわいわいと観ていた時期もある歌舞伎には、今も、その名残があります。
「大向こう」と言われる独特の掛け声もその一つ。
【 現代】スーパー歌舞伎の登場
歌舞伎は戦後の危機を乗り越え、昭和61年(1986年)には、現代風の音楽やセリフを取り入れた「スーパー歌舞伎」が登場しました。
2020年代の現在は人気脚本家による作品、絵本やアニメが原作の元になった作品など、新作が上演される機会が増えています。
400年以上の歴史を持つ歌舞伎は現代の今、古典から新作まで幅広い演目で私たちを楽しませてくれています。
最近『ワンピース』や『NARUTO』といった漫画を原作とした新作歌舞伎が上演されています。
「あれ?歌舞伎どうしちゃったの?」「歌舞伎っぽくないね」という意見もありますが、実はこのような新たなものを取り入れる「活発な新陳代謝」こそ歌舞伎が400年にわたって生き残ってきた秘密なのです。
最近「ワンピース」や「NARUTO」といった超人気アニメが次々と歌舞伎の舞台で上演されました。
「え!?歌舞伎でアニメ作品を演るの???」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
知れば知るほど奥の深い歌舞伎の世界
歌舞伎の成り立ちと歴史について解説してきましたが、知れば知るほど奥深いのが歌舞伎の世界です。
歌舞伎役者の先祖や師匠をたどると、現代につながる歌舞伎の演出や演目といった「芸の流れ」が理解でき、きっと歌舞伎を観るのが楽しくなるはずです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
歌舞伎というと「敷居が高い」、「上流階級の人が観るもの」といったイメージがあり、厳しい観劇マナーがあるのでは…?と緊張してしまう方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、歌舞伎は元々江戸時代の庶民の娯楽であり、気楽に楽しむものです。
マナーについても、現代の映画を観るときと大きく異なることはありません。
歌舞伎にはどのようなジャンルがあるかご存知でしょうか?
400年以上の歴史を誇る歌舞伎には4,000以上もの演目があると言われています。
今回はそんな歌舞伎の代表的な演目をジャンル別に紹介することで、歌舞伎のジャンルに対する理解を深めていただければと思います。
劇場で舞台を楽しむことはもちろんのこと、「シネマ歌舞伎」を通して映画館で歌舞伎を楽しむこともできます。
定期的に、さまざまな演目が特定の映画館で上映されています。
お近くの映画館で上映されているか確認されてみてはいかがでしょうか。