落語に興味を持った際に、たびたび耳にする「真打」という言葉。
上の階級であることに間違いないものの、実際にどういう過程を経て真打になり、階級昇格後に何が変化するのか知る人は少数かもしれません。
今回は、落語家たちがどの階級を経験して真打になるのか、真打ち昇進試験の詳細、日本を代表する真打落語家について解説します。
そもそも真打とは?
「真打」は、開催された寄席でトリを務める資格がある落語家を指します。
落語家になって弟子を取れるのは、真打になってからです。
真打のいわれは諸説ありますが、有力と思われるものをご紹介します。
昔の口座では蝋燭が照明の役割を果たしており、寄席の締めくくりに、最後の演者が蝋燭を消してから高座を下りる決まりです。
蝋燭を消す所作は、蝋燭の芯を打つ(切って消す)のと同じ。
漢字を「芯」から「真」に変えて、真打となったという説が有力です。
落語の階級と地域性
落語は、大阪や京都を中心に演じられている上方落語と、東京で演じられる江戸落語の二種類が存在します。
落語に真打などの階級があるのは、全国共通なのでしょうか?
上 方落語には真打などの階級制度が存在しない
上方でも大正時代まで真打制度がありました。
しかし、1960年代に起こった上方落語ブームによって真打システムが形骸※化してしまったのが実情です。
天満天神繁昌亭ができた折に、当時、上方落語協会会長だった桂三枝(現在の六代目桂文枝)が真打制度を上方でも復活させようとしたものの、多くの反対があり断念。
とはいえ、上方落語に階級的序列が存在しないわけではありません。
芸歴5年以上の噺家は、中座と位置付けられ、江戸落語でいう二つ目の階級に相当。
また、芸歴15年以上になった上方の落語家は、真打と同格に扱われることが多くなります。
トリを務めるのは、芸歴30年以上のベテランがほとんど。
入門25年未満であっても、実力次第ではトリに抜擢されることがあります。
繁昌亭では平成19年(2007年)以降、毎年大賞と奨励賞を設け受賞者を発表。
大賞と奨励賞を受賞した落語家は、入門から25年以下でもトリになることが可能になります。
仲入り(休憩)前の出番は、仲トリと呼ばれ、トリの次に実力があるとされる噺家が務めます。
繁昌亭の爆笑賞、創作賞、輝き賞のいずれかを受賞することができれば、仲トリを任されるようになります。
※形骸:外形だけを残して、内容のないもの、意味を失っているもの。
江 戸落語の階級は真打以外にもある
先程、「二つ目」という言葉が出ましたが、江戸落語の階級制度についてご説明します。
おおまかに分類すると、前座、二つ目、真打となります。
さらに細かく分けるなら、前座の一つ前に前座見習いが入ります。
真打に昇進するまで
「これから落語家になるぞ」と決意した人が、真打に昇進するまでには、どのような道のりをたどるのでしょう。
前座見習いから真打までの道程を詳しく解説します。
「 前座見習い」や「前座」という階級
落語は完全なる徒弟制度の世界。
落語家になりたければ、まず師匠の元を訪ねて、入門の許可をもらわなければいけません。
正式に入門が認められると、前座見習いとなります。
まだこの時点では協会へ登録されていないため、楽屋の出入りは許されません。
師匠や兄弟子の鞄持ちをしながら、業界のしきたりを学びます。
師匠からお小遣いを頂戴することがあるものの、ほぼノーギャラ。
アルバイトも禁止されているため、前座見習いの間は、ほとんど実入りがありません。
晴れて前座になれれば、噺家としての人生がスタート。
師匠の家に住み込んだり、通ったりしながら、食事、洗濯、子守りといったさまざまな雑用をこなします。
前座の期間は4年前後。
ほとんど休みはなく、慌ただしい日々が続きます。
師匠の前座として高座に上がる機会も少なくありません。
しかし、一回当たりの出演料は数千円ほど。
頑張れば何とか家賃を払えるくらいの収入しかないため、前座時代にハングリー精神が培われる人も少なくないでしょう。
通いの弟子はアルバイトをしながら、前座期間を切り抜けることもあります。
「 二つ目」「真打」という階級
前座から二つ目に昇格すると、ようやく雑用から解放されます。
ここからは個人事業主のようなもので、自力で営業をして仕事を獲得しなければなりません。
二つ目の期間は約10年。
前座のときは師匠と一緒にいる機会が多いため、同じ公演で高座を任されることも少なくありません。
そのため、まだ仕事が入りやすいものの、二つ目になった途端に仕事が減少する人も。
この期間に怠けていると、取り返しのつかないことになります。
二つ目は、その後の落語家人生を占う時期ともいえるでしょう。
二つ目の次は、いよいよ真打へ昇格。
真打になれば、弟子をとることができます。
噺家を志した人は、誰しもが「最終的には真打まで昇格したい」と考えるもの。
一つの到達点ではありますが、芸の道に終わりがないのも確か。
さらなる精進が求められます。
真打になる条件
落語家が真打階級へ上がるには、ある条件を満たさなければいけません。
どのような基準を超えれば、真打に昇進することができるのでしょうか。
落 語家が真打の階級へ上がる基準は結構、あいまい?
真打の階級に上がる昇進制度は、時代や協会で権力を握る人間が誰かによって基準が大きく異なります。
現在、江戸落語は、落語協会・落語立川流・落語芸術協会・円楽一門会の4つに分かれています。
各々の協会によって昇進基準が違うことから、真打の昇進といっても一括りにはできず、曖昧な面があります。
歴 史に語り継がれる落語協会分裂騒動とは?
昭和53年(1978年)に勃発した落語協会分裂騒動は、40年以上経過した今でも語り継がれるほど落語史に残る大きな事件といえます。
三遊亭圓生は、昭和40年(1965年)から昭和47年(1972年)まで落語協会の会長を務めました。
圓生が設けた真打昇進の条件は大変厳しく、彼が実力を認めたものしか昇進を許されなかったのです。
圓生が厳しすぎた影響で、柳家小さんが会長となったときには、二つ目昇格後、真打になれないままの噺家が40名もいたのです。
新しく協会の理事となった三遊亭圓楽は、事態の打開策を考えていました。
小さんに「真打を大量昇進させてはどうか?」と提言。
これを受けた小さんは、昭和47年(1972年)と昭和48年(1973年)の間に合計20人の二つ目を真打に昇進させる提案を行いました。
三遊亭圓生から「安易に昇進させすぎるのはいかがなものか?」と反対があったものの、小さんは圓生の意見を押し切り、理事会では賛成多数で可決されたのです。
意にそぐわない形で、真打が増えたことに激高した圓生は、協会の理事であった三遊亭圓歌、三遊亭金馬、春風亭柳朝を電撃解任し、三遊亭圓歌、立川談志、古今亭志ん朝の3人を常任理事に昇格させるように要求しました。
これを受けた小さんは、3名の理事が追加されることは許可したものの、圓歌、金馬、柳朝の解任は不当として断固拒否。
すると圓生は落語協会脱退を決意。
実はかねてから「第三の落語協会を作りたい」と考えていた談志は、絶好機が来たとばかりに動き出します。
談志と同意見だった圓楽は、圓生の同意を得て、志ん朝を誘い新しい団体の設立に奔走します。
昭和53年(1978年)の5月24日に、圓生は落語協会を脱会して「落語三遊協会」の設立を発表。
しかし、蓋を開けてみると、新団体へ移籍するものと思われた林家三平一門、金原亭馬生一門、そして立川談志一門が不参加を発表。
直系の弟子である三遊亭さん生と好生も不参加を発表。
新団体に所属する著名な一門は、圓生、志ん朝、圓蔵一門のみでした。
過 去に物議を醸した「真打昇進試験」とは?
過去に起こった真打昇進試験にまつわる印象的な出来事を紹介します。
昭和58年(1983年)に真打昇進試験を受けたのは合計10名。
合格者は4名。
不合格だった6名の中に談志の弟子の立川談四楼、立川小談志の2名が含まれていました。
弟子の不合格に納得がいかない談志は、落語協会の脱会を表明。
合否の基準が不明瞭であることが談志を怒らせたといわれています。
談志は自ら落語立川流を発足させ、独自の道を歩むことに。
それまでの落語協会への反定立であるかのように、二つ目、真打への昇進に厳しい基準を設けました。
特に真打になるには、歌舞音曲などの素養や、百席の演目をできるなど、かなり高いレベルを設定しました。
立川談志が立川流を仕切っていた頃は、明確な基準があったものの、時代とともに立川流の真打昇進制度が変わりつつあります。
平成26年(2014年)からはじまった「落語立川流真打トライアル」は、流れをガラリと変化させました。
数人の二つ目が真打の座をかけて戦いを繰り広げるトライアルはかなりスリリング。
真打に昇進できるか否かは、立川志らく、立川談四楼などの理事の判断に委ねられます。
お客さんも理事をも納得させることができれば、昇進が決定するものの、それほどスムーズにはいかないのがほとんどです。
平成31年(2019年)の夏に真打への昇進が内定していた、志らくの弟子である志獅丸。
彼は「師匠主宰の劇団の稽古を一度も見に来なかった」という理由から、志らくの逆鱗に触れ、前座に降格になる騒動がありました。
その後、志獅丸は短期間の前座修行を経て、真打への昇進を許されましたが、このように昇進基準が以前よりも曖昧になっているのは間違いないでしょう。
今や落語家は半分以上が真打!
類を見ない超高齢化社会に突入している日本。
実は落語家の世界も同じような現象が起きています。
上の層ほど人口が増加し、下れば下るほど少なくなる傾向に。
真打が増え続けることへ疑問を呈する人も多くいます。
落 語家は定年がない
平成28年(2016年)7月時点で東京落語家545人の噺はなし家のうち、真打はなんと352人。
6割~7割近い落語家が真打になるという、歪な構図になっています。
お笑い業界でもナインティナインの岡村隆史氏が「上が詰まっている」発言をし、物議を醸しましたが、江戸落語でも全く同じ現象が起こっています。
そして、真打になったから必ず潤うかといえば否。
経済的に恵まれていない、名前だけの真打もたくさん存在します。
前 座階級は2割以下
真打が352人に対し、二つ目は118人、前座にいたっては75人(2017年時の統計)と、先ほどお話した通り下の階級へ行くほど落語家の人口が減る傾向に。
現代の日本人の平均寿命は80歳を超えています。
このまま推移していけば、さらに真打が増え続け、二つ目、前座の数が減るのは目に見えています。
実は今、江戸落語は非常に危険な状態にあるのですが、具体的な打開策は打ち出せずにいます。
日本を代表する真打階級の落語家4人
日本を代表する真打の落語家を4名紹介します。
テレビなどのメディアへ積極的に出演しており、顔馴染みの人もいます。
三 遊亭円楽(六代目)
かつては三遊亭楽太郎の名で親しまれていましたが、平成22年(2010年)3月1日に師匠から圓楽の名を襲名。
昭和56年(1981年)3月に真打昇進を果たしました。
まだ彼が楽太郎だったとき、師匠から襲名の話を伝えられ「師匠の圓楽と区別できるよう円楽にしよう」と決定。
しかし、五代目圓楽は、楽太郎が六代目円楽を襲名する直前の平成21年(2009年)10月29日に逝去してしまったのです。
「博多・天神落語まつり」のプロデュースを手掛けてきた楽太郎は、師匠の死に目に会うことができず、それが大きな心残りでした。
翌日の「博多・天神落語まつり」では、いつもの彼らしく振る舞ったといわれています。
しかし、襲名披露に立ち会ってもらえなくなったことで、甚大なショックを受けました。
とても会見を開き報道陣に何か伝えられる状態ではありません。
師匠の亡骸と対面できたのは、通夜が行われた11月4日でした。
師匠が亡くなったあとも、襲名前に決めた名前に関するルールを守り抜く気持ちは変わりませんでした。
襲名後に彼が出演した寄席やテレビ番組の出演時など、全ての活動で「三遊亭円楽」と名乗っています。
昭和52年(1977年)8月より「笑点」に出演し続けており、全国で高い人気を誇っています。
伊集院光が落語家時代、彼の弟子だったのは有名な話です。
かつて学生運動をしていた経験があり、その影響からか落語に政治や社会風刺を含めることも少なくありません。
平成28年(2016年)6月に40代女性との不倫を報道されましたが、このときの会見でも「さすがは落語家!」と称される笑いを交えた釈明を行い、「圓楽の神対応はお見事!」と称賛されました。
東京にある主要な落語家の団体四つ全てに在籍歴がある珍しい噺家で、交友関係の広さには定評があります。
十八番の演目は「芝浜」。
出囃子は「元禄花見踊」です。
令和4年(2022年)9月30日に永眠されましたが、現在もなおファンから愛される落語会の人気者です。
柳 家喬太郎
大学の落語研究会出身で、俳優としても活躍する異色の落語家です。
大学対抗落語選手権で優勝したり、テレビのお笑い番組にも出演するなど、在学中からその才能を発揮していました。
大学卒業後、一度は一般企業に就職したものの、落語への想いを捨てきれず、平成元年(1989年)に人情噺や滑稽噺で高い評価を持つ実力派・柳家さん喬のもとに弟子入りします。
この時、プロの落語家としての修業をはじめるにあたり、落語研究会時代の垢(実績)を落とさないといけないという意味で、「ゼロからではなくマイナスからのスタートだ」と言われたそうです。
まじめな性格から入門後はコツコツと稽古を重ね、芸を研き、平成10年(1998年)にはNHK新人演芸大賞において新作落語で大賞を受賞。
平成12年(2000年)には12人抜きで真打に昇進しました。
「できない落語がない」と言われるほど幅広い内容の落語を面白く演じることで有名で、滑稽噺、人情噺、怪談噺のすべてを円熟味ある芸で演じます。
自作の創作落語も秀逸で、NHK新人演芸大賞をとった「午後の保健室」、ギャグが満載の「寿司屋水滸伝」、大好きなウルトラマンネタなどがあり、豊富なバリエーションで観客を沸かせています。
喬太郎の落語の根底には、「予備知識がなくても楽しんでもらうのが仕事」という思いがあるそう。
古典落語にも現代ネタを取り入れたり、自身が作詞・作曲した歌を新作落語で披露したりと、初心者でも落語を存分に楽しめるよう工夫が凝らされています。
そのエンターテイナーぶりは、自身の幅広い活動に裏打ちされたものでしょう。
大学時代に『欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子』に悪い下宿人として出演したのをはじめ、現在も俳優として活動し、映画の主演も務めてきました。
出囃子は「まかしょ」で、新作落語の時には自作の「東京ホテトル音頭」を用いることもあります。
立 川志の輔
広告代理店に勤めていましたが、一念発起し29歳の時に落語家に転身。
生で見た七代目(自称五代目)立川談志の芝浜に感銘を受けて、弟子入りを決意します。
師匠の談志が落語協会を脱退したため、前座修行を控えていた志の輔も一緒に脱退することに。
その影響で、彼は前座として高座に上がることがありませんでした。
修業時代、前座として寄席に出たことがない落語家は彼だけかもしれません。
昭和59年(1984年)の10月に二つ目へ昇進するまでは、ほとんど無収入。
知り合いのつてを頼って得たナレーションの仕事でもらえるお金も、雀の涙程度だったそうです。
平成2年(1990年)5月に落語立川流真打に昇進。
真打の階級に昇進する以前から、テレビやラジオのメディアへ積極的に出演していた為、その名が全国に轟いていました。
健康や食生活がテーマの「ガッテン!(NHK総合テレビ)」で、彼の名を知った人も多いでしょう。
師匠の談志は古典落語を中心に活動していましたが、志の輔は正反対。
これまでに数々の新作落語を作り、上演しています。
小説家の清水義範から創作落語の着想をたくさん得ており、清水氏の短編小説をモチーフに作った「みどりの窓口」は志の輔の代表作。
出囃子は「梅は咲いたか」です。
毒舌家で滅多に弟子を評価しない談志が「志の輔は立川流の最高傑作」と手放しで褒め称えました。
人気・実力を兼ねそろえた、江戸を代表する落語家です。
春 風亭一之輔
平成24年(2012年)3月に、21人抜きの大抜擢で真打の階級に単独昇進。
一之輔が真打となったとき、今や伝説となった「真打昇進披露興行」。
国立演芸場での8日目の公演は昼夜興行だったため、50日で51席の落語を上演しました。
これだけの日数であれば、かなりの演目が被ってもしかたないのですが、お披露目興行で上演されたネタは24個。
これもまた驚異的です。
彼にとって十八番の一つといえる「粗忽の釘」でスタートした真打昇進披露興行が、最後を迎えた日は声がいつものように出なくなり、ベストコンディションではなかったそうです。
しかし、最後まで走り切った一之輔に対し、万雷の拍手が送られたことはいうまでもありません。
50日目が終わりファンから差し入れで頂戴したドンペリを飲んだとき、一之輔はようやく少しだけほっとできたのではないでしょうか。
年間900席を超えるなど高座の数から、人気の高さが伺えます。
特筆すべきは上演できる演目のバリエーション。
200を超える持ちネタは、いずれも「創意工夫があり面白い」と好評を博しています。
江戸落語は上方落語に比べて、「くすぐり」と呼ばれるギャグを控える傾向が強め。
しかし、一之輔は積極的にくすぐりを入れるスタイル。
高座は毎回大きな笑いに包まれます。
芸能人などが地方を巡業することを意味する「どさまわり」をもじった「どっさりまわるぜ2019」で全国ツアーを開催。
古典落語のキャラクターを現代風にかえるなど、ぜひ若者にも見て欲しい落語家の一人であり、チケットが取れない落語家の代表格です。
得意な演目は「初天神」。
出囃子は「さつまさ」です。
落語は真打階級に昇進してからが本当の勝負!
真打になるまでの苦労は生半可なものではありません。
しかし、噺家としての真価が問われるのは、真打の階級に昇進してから。
前記したとおり、今は真打に希少価値がありません。
だからこそ「どんな芸を見せられるのか?」が重要です。
真打昇進はゴールではなく、スタートと捉えるべきでしょう。
おわりに
その昔、真打といえば貫禄たっぷりの大師匠というイメージでした。
しかし今は、これだけ真打がいる時代。
まだまだ若々しいエネルギッシュな真打もいれば、師匠然と凄みを持つ人も。
非常にバリエーションが豊富です。
真打の落語家で贔屓がみつかれば、落語をより一層楽しめます。
ぜひ、あなたも実際に寄席へ足を運び、「一生、応援したい!」と思える、真打落語家を発見してくださいね。
テレビやラジオで落語に興味を持ち、一度生で聴いてみたいと思っている人は多いようです。しかし、どこで落語を聴けるのか、チケットはどこで買えるのかなど、分からないことが多い人もいるでしょう。そこで今回は、落語を生で聴いてみたい人に分かりやすくご説明します。
プロとして活動している落語家のほとんどは、何らかの団体に所属しています。
落語界には「落語協会」と「落語芸術協会」の二大派閥があり、それぞれ指針や活動内容が異なります。その他にも、小規模ながら、重要な役割を担っている落語家団体があります。
亭号(流派・屋号)とは、落語家の芸名のうち苗字にあたる部分のことです。「三遊亭」や「桂」、「柳家」「春風亭」などがよく知られています。落語に興味を持ち始めると、どんな落語家がいて、落語界の中でどれくらいの地位を占めるのか、より深く知りたくなるもの。今回は落語の流派を示す「亭号(ていごう)」について解説していきます。