書のはじまりは、卑弥呼から

日本は、最初独自の文字をもっておらず、中国の漢字から書が生まれたと考えられています。

書として文字を書き出したのがいつ頃なのか詳しい年月は不明のままですが、残された遺品からある程度の年月が解明されています。

漢字が日本に入ってきていたことがわかる遺品は、「漢委奴國王かんのわのなのこくおう」の金印です

江戸時代に出土したこの金印は、今から約2000年前の西暦57年に中国古代の王朝である後漢ごうかんの初代皇帝である光武帝こうぶていが、現在の福岡付近に存在したと推定される倭の奴国の使者に与えたものと考えられています。

そして、金印の書体から日本最初の文字は、篆書体てんしょたいということになりました。

漢委奴國王かんのわのなのこくおう」の金印以外の遺品で有名なものに銅鏡もあります。

漢委奴國王かんのわのなのこくおう」の金印が作られたとされる西暦57年から約150年後の西暦220年後の邪馬台国の時代に、中国の歴史書である三国志の中の「魏書ぎしょ」では先程述べた倭の国々をおさめた指導者である女王卑弥呼について書かれています。

その卑弥呼が「数回にわたり中国の王朝である朝貢ちょうこう※1し、魏からたくさんの鏡を贈られた」という記述が残されています。

※1 朝貢:外国の使者などが来朝して朝廷に貢物を差し出すこと。

見つかった遺品の銅鏡である「隅田八幡人物画像鏡すだはちまんじんぶつがぞうきょう」は、中国製の鏡を模して作られたそうなので、この鏡は卑弥呼が魏から贈られたものと考えられます。

銅鏡の文字が漢字で記されていることから、この時期には、書が中国から日本に広く伝来していた証になります。

そして、その後弥生時代から奈良時代に入ると書からさまざまな物語が生まれてきます。

奈良時代から平安時代へ 書の確立は写経からはじまる

奈良時代(西暦710年)に入ると仏教が広がり、聖武天皇の妻である光明皇后こうみょうこうごうが書写した

一切経いっさいきょう
華厳経けごんきょうの書写「紺紙銀字華厳経こんしぎんじけごんきょう

などの写経が知られるようになります。

これらの写経が書の確立のもとになったと言われています。

奈良時代 天平13年(西暦741年)写経から芸術へ

書の確立のもととなった写経の中の1つに、仏教の祖である釈迦しゃかの前世の物語と現世の伝記を表した経典、「過去現在因果経かこげんざいいんがきょう」があります。

そこには、紙の上半分に絵、下半分に写経が書かれています。

奈良時代から鎌倉時代にも存在しているこの「過去現在因果経」は、絵画としても有名です。

平安時代 西暦809年~833年 時代は王朝文化へ

平安時代に入ると、能書※2として

※2 能書:文字を上手に書く人のこと。

最澄さいちょう
空海くうかい
橘逸勢たちばなのはやなり

が『三筆』として知られるようになります。

なかでも空海は、日本でもっとも有名なお坊さんのひとり「弘法大師こうぼうだいし」として知られています。

「弘法も筆のあやまり」という言葉も空海からきた有名なことわざです。

橘逸勢もまた中国へ留学し、空海とともに帰国した人物です。

貴族の地位は低かったのですが、優れた能書として有名になりました。

そして、最澄は、平安時代に比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじを建て、天台宗を広めた有名なお坊さんです。

最澄は、中国で中国東晋とうしんの政治家であり、書家でもあった「王羲之おうぎし」の書風を学び、引き継いでいきます。

さらに日本に帰国後は、中国唐代とうだいの政治家であり、書家でもあった「顔真卿がんしんけい」の書風も取り入れて広めていきました。

このように日本の書は、中国の有名な書家の影響を大きく受け今日に引き継がれていったのです。

平安時代中期 西暦928年 書は美しい日本文化へ

平安時代中期、遣唐使けんとうしが廃止され、

小野道風おののみちかぜ
藤原佐理ふじわらのすけまさ
藤原行成ふじわらのゆきなり

この3人の能書が現れます。

彼ら3人は「三蹟さんせき」と呼ばれるようになります。

小野道風も、中国の政治家であり書家でもあった王羲之おうぎしの書風を取り入れつつ、美しい行草書※3を書いていきます。

※3 行草書:行書体、草書体のこと。

この道風の影響を受けた藤原佐理は、さらに伸びやかで美しい書を書いています。

彼の書は、現在でも人気があります。

藤原行成にいたっては、王羲之の書法に道風の書を加えた書風、雅やかで淡麗な文字を書く人物として知られています。

平安時代 西暦995年 藤原政権へ 清少納言、紫式部が現れる

その後も藤原佐理ふじわらのすけまさを祖父に持つ藤原実頼ふじわらのさねより摂関政治せっかんせいじを確立し、その甥である藤原道隆ふじわらのみちたか藤原道長ふじわらのみちながへと歴史が続いていきます。

道隆の長女の藤原定子ふじわらのていし (一条天皇の皇后)に仕えていた女官が清少納言せいしょうなごんであり、道長の娘の藤原彰子ふじわらのしょうこ (一条天皇の皇后)の女官に紫式部むらさきしきぶなど文才、書に長けた人物がいたことはとても有名な話です。

日本と中国の能書で狂書 空海と懐素の驚きのエピソード

日本の書は中国の王羲之おうぎし顔真卿がんしんけいなどの影響を大きく受け引き継がれてきました。

今でも空海の書は日本の書の手本と言われているほどです。

その空海も中国のとうで、中国語である梵字ぼんじ悉曇文字しったんもじなどを学んでいます。

空海は、別名「五筆和尚ごひつおしょう」と呼ばれ、壁書を書くときは左右の手に筆を1本ずつ持ち、両足の指に筆を1本ずつはさみ、口にも筆を加え、五行の書を同時に書いたと言われています。

また、平安神宮の『応天門おうてんもん』の字を書き、額を打ってもらってから「応」の字の点を書き忘れたことに気づき、下から額めがけて、筆を投げ、点を書き加えたという話も残されています。

こういったことから空海は書法に縛られない「狂逸きょういつ」の能書として知られていました。

そして、中国にも空海に似た「懐素和尚かいそおしょう」という有名な人物がいます。
王羲之の書法を軸にしながらも奔放で流麗な草書が「狂草きょうそう」であると言われた人物です。

普段はまじめで温厚な和尚だったようですが、お酒好きでお酒が入ると書が書きたくて仕方なくなり、目にしたもの机、壁、近くにいる人の着物などあらゆるところに草書を書きまくったことから「草書狂いの和尚」とも呼ばれていたようです。

書の偉人から見えてくる不思議でおもしろい話

三蹟さんせきの1人である藤原佐理ふじわらのすけまさに関して不思議な話があります。

長徳ちょうとく3年に太宰府から帰京することになった佐理一行は、途中である伊予国いよのくに( 現在の愛媛県)の大三島沖で風も波もないにもかかわらず舟が前に進まなくなってしまいます。

その夜、佐理の夢に大三島神社がおじいさんの姿になってあらわれ、「神社に額がないので書いてもらえないか」といったそうです。

佐理が承知し、額を書きあげると無事に帰京できたという話があります。

この話が元で佐理は日本第一の書き手であると言われるようになったそうです。

このような不思議でおもしろい話が残されているのは、それだけ影響力のある人物だったからかもしれません。

書は、日本の歴史や文化にかかせないもので、奥が深くおもしろい話もまだまだたくさんあります。

ぜひ、美しい日本の文化に触れてみてください!

おわりに

書の歴史を知ることで、書道を始めてみたいと思ったのではないでしょうか。

そんな方へ、一から始める書道の具体的な手順を下記にまとめているのでご参考にしてみてはいかがでしょうか。

1つ一つの動作を意識するだけで上達のスピードは変わってきますので、ぜひこちらの記事もご覧になってください。