大福や饅頭のように日常のおやつとして食べるものや、季節の行事やお祝い事に使われるものまで、わたしたちの暮らしとつながりの深い和菓子。

あんこが健康的な面から注目されたこともあり、近年特に関心が高まってきています。

そもそも「和菓子」とは、明治時代の開国とともに海外から入ってきた「洋菓子」に対して「日本菓子」や「和菓子」と言われるようになったもの。

餅、饅頭、羊羹、練り物、干菓子、煎餅など日本の伝統的なものはもちろん、戦国時代頃に伝わった南蛮菓子も含まれます。

そんな和菓子にはどんな歴史があって、どんな銘菓があるのかご紹介しましょう。

写真提供:月乃舎Facebookページ

和菓子の歴史

本来「菓子」とは、果物や木の実を意味する言葉でした。

稲作が伝わった縄文時代後期には、携行や保存用として餅や団子の原形のようなものがあったとされています。

飛鳥~平安時代にかけて遣唐使が唐菓子(穀類や豆などに甘味を加えてこね、油で揚げたり焼いたりしたもの)を伝え、鎌倉~室町時代に中国から羊羹や饅頭などの中華菓子が伝わりました。

戦国~安土桃山時代には、ポルトガルやスペインからカステラや金平糖などの南蛮菓子が伝わり、茶道が確立された時期と重なって、日本の菓子文化に大きな影響を与えました。

江戸時代に入り、それまで貴重だった砂糖の輸入量が増えると、菓子作り専門の店も増えていきました。

京都では花鳥風月にちなんだ名前や工夫の凝らされた菓子が生まれ、高級菓子として発展し各地に広がっていきました。

当時一般的に使用されていた黒砂糖ではなく、高級だった白砂糖を使用していたことから「上菓子」と呼ばれ、公家や大名、裕福な商人などに好まれました。

各地の藩主も、贈答用や茶会用に自分の土地の銘菓を作らせるようになり、参勤交代のために街道が整備されたことで、各地に銘菓が増えていきました。

明治時代になると、江戸幕府が倒れたことによって幕府御用足の菓子店が廃業となり、開国とともに西洋伝来の菓子が増えていく中、「洋菓子」に対して「日本菓子」や「和菓子」という言葉が使われるようになりました。

和菓子の三大銘菓


和菓子に「三大銘菓」と呼ばれるものがあります。

一説には、越乃雪本舗大和屋(新潟県)の「越乃雪」、風流堂(島根県)の「山川」、森八(石川県)の「長生殿」の3つです。

押物おしもの落雁らくがんと呼ばれるもので、もち米などの穀物の粉に砂糖類を加え、型に入れて作るお菓子です。

どれも長い歴史を持つ、上品な味わいの品ばかりです。

乃雪 こしのゆき

「越乃雪」は、長岡藩主に命名され、240年間受け継がれてきた菓子です。

安永7年(1778年)、病に伏せる長岡藩主牧野忠精まきのただきよ公に献上された菓子で、その後病が快癒した忠精公より「越乃雪」と命名されました。

また、藩の参勤交代の際の贈答品として用いられたことで広く知られるようになり、幕末の志士からも好まれました。

中でも長州藩で尊王攘夷の志士として活躍した高杉晋作が亡くなる10日ほど前に、今年の雪見はできないからと、見舞いにもらった「越乃雪」を松の盆栽にふりかけて雪見をしたという話は有名です。

明治天皇もご巡幸に食され、昭和に商工省指定の技術保存商品とされ、戦時中も途絶えることなく作られてきました。

「越乃雪」は、越後特産のもち米を独自の製法で粉末にした「寒晒粉かんざらしこ」と徳島特産の和三盆糖を、四角い形に仕上げた押物です。

和三盆糖は「盆の上で砂糖を3度研ぐ」という製造工程が名の由来で、きめが細かく口どけが良い上質な砂糖です。

その中でも「生」と呼ばれる特別な和三盆を使用し、触れると降りたての新雪のように、ほろほろと崩れてしまう柔らかさです。

口に含むと上品な甘さが広がり、水分を含んで雪が溶けていくようにいくように消え、小さな米粉の粒が味と香りの余韻をほのかに残します。

こだわりの素材だけを使って丁寧に作られ、素朴さと繊細さを合わせもった、風味豊かな和菓子です。

川 やまかわ

「山川」は、松江藩の茶人「不昧公ふまいこう好み」の一品に数えられる銘菓です。

松江藩七代目藩主の松平治郷公は、茶人「不昧公」と言われ、茶器を収集し多くの銘菓を考案しました。

「山川」を含む銘菓は、当時高価だった砂糖を大量に使うこともあり、時代の流れとともに一時姿を消しましたが、大正時代に残っていた文献などをもとに、風流堂当主の努力により復刻されました。

「山川」は、寒梅粉かんばいこ(もち米を加工した粉)と砂糖と食塩を使った落雁で、紅と白の一対になっています。

「散るは浮き 散らぬは沈む紅葉もみじばの 影は高尾の山川の水」

不昧公が詠んだこの歌にちなんでいると言われ、「紅」が紅葉の山、「白」が川のせせらぎを表しています。

当時は、季節の移ろいに合わせて紅と白を上下にしたり、間に挟んだりして茶席に供したと言われています。

落雁の一種でありながら、しっとりとまとめられているので、もちもちとした食感もあり、ゆっくりと口の中で溶けていきます。

柔らかさの中にしっかりとした甘さがあり、茶人の考案した菓子らしく、抹茶などの濃いお茶にあう味わいです。

生殿 ちょうせいでん

長生殿は、加賀藩主の創意と茶人の命名により生まれた、由緒ある菓子です。

加賀藩三代目藩主前田利常公が銘じて作らせた菓子で、茶人大名・小堀遠州こぼりえんしゅうが『長生殿』と名付けたことでも有名となりました。

加賀藩は民衆にも茶道文化を伝え、職人や町人までがお茶の作法を身につけるほど定着し、現在でも多くの茶会が開催されています。

薄い長方形の表面に「長生殿」の名が刻まれ、シンプルな形状ながら存在感を示しています。

この字は、命名した小堀遠州の直筆をかたどったものと言われています。

小堀遠州は、後の近江小室藩初代藩主で、茶道にも造詣が深く遠州流の開祖でもあります。

加賀のもち米の粉と阿波産の和三盆に飴を加えて、繰り返し丹念に練ったものを木型で打ち固めて作る製法は、300年以上も守られてきました。

何度も練ることで、粉のザラつきがなくなり滑らかになります。

山形県の本紅を使用した薄紅色は、鮮やかでありながら趣のある色あいです。

最初の歯触りはカリッと弾けるような食感で、次第にすっと流れるように溶けていきます。

奥行きのある上品な甘みと、もち米本来の滋味を感じさせる優雅な味わいです。

おわりに

和菓子には長い歴史のあるものが多く、それぞれの時代に関わった人々の思いが込められています。

当時の暮らしに想いを馳せながら、日本の文化をかみしめることができるのも、和菓子の魅力です。