大阪のシンボルとも言える、大阪城(大坂城)。

現在一帯は公園として整備されており、多くの観光客で賑わう場所となっています。

そんな大阪城ですが、実は重要文化財が多く残されており、長い歴史を持ったお城であることはご存知でしょうか?

今回は、大阪城の歴史と特徴を探りながら、大阪城を観光する上での見どころをお伝えしていきます!

大阪城(大阪城)とは?

大阪城(大阪城)は、天正11年(1583年)に当時天下統一を目指していた豊臣秀吉によって築かれたお城で、別称・錦城きんじょうといいます。

現在は大阪城公園として整備されており、その一帯が「特別史跡大阪城跡」として国から指定されています。

大阪城跡内には国の重要文化財に指定されている建物が13棟あり、修復や再建を繰り返しながらも、長年に渡り保存されている重要な場所です。

実は大阪城には、「大阪城」と「大坂城」の2つの表記が存在することをご存知でしょうか?

「坂」という字は“坂を転げ落ちるようで縁起が悪い”“士が反するようで縁起が悪い”というような理由から、明治になって「阪」に統一されるようになったそうです。

そのため、明治以前では「大坂城」、明治以降は「大阪城」となっています。

現在の天守は、「大阪城」と呼ぶのがふさわしいでしょう。

大阪城(大坂城)の歴史

坂城のはじまりは安土桃山時代

大阪城(大坂城)の歴史は、安土桃山時代にまで遡ります。

明応5年(1496年)、現在大阪城がある場所に、当時大きな力を持っていた浄土真宗本願寺派の蓮如れんにょが大坂(石山)本願寺を建立したのが始まりです。

大坂(石山)本願寺は、織田信長の襲来によって始まった石山合戦の舞台となった場所。

元亀元年(1570年)から約10年続いた石山合戦により、大坂(石山)本願寺は全焼してしまいました。

下統一を目指す豊臣秀吉と大坂城

天正11年(1583年)に大坂(石山)本願寺の跡地に築城された大坂城は、天下統一を目指す豊臣秀吉の本拠地となりました。

完成に15年もの歳月を費やした大坂城は、五層に重ねられた屋根や金箔の虎の飾りをほどこした黒漆喰の壁など、全国的にも最大級の規模の城として圧倒的な存在感を誇ります。

秀吉の死後、慶長8年(1603年)に徳川家康によって江戸に幕府が開かれます。

大坂の地で豊臣家と徳川家の緊張状態が続く中、ついに慶長20年(1615年)に大坂夏の陣が勃発。

徳川軍が放った火は天守閣を包み、大坂城は落城。

秀吉の三男・秀頼は、籾蔵の中で母である淀君らと自害し、豊臣家は滅亡しました。

戸時代の大坂城

大坂夏の陣を経て、元和5年(1619年)には大坂が幕府の直轄地になります。

2代将軍・徳川秀忠により大坂城の再築工事が起こされ、3代将軍・徳川家光の代で大坂城は再建されましたが、徳川幕府が大坂城を基点とすることはありませんでした。

万治3年(1660年)には大坂城内の火薬庫に雷が落ちて大爆発、寛文5年(1665年)には天守北側に落雷するなど 、数度の災害に見舞われます。

その後、修復を開始しますが、戦乱によって再度焼失してしまいます。

こうして、大坂城は徐々に姿を変えていくこととなりました。

在の大阪城

明治時代になると、大阪城の跡地は陸軍の軍用地として使用されます。

敷地内には重兵器を製造するための大阪砲兵工廠が構えられたこともあり、太平洋戦争の際にはアメリカ軍の爆撃対象となりました。

昭和6年(1931年)には市民からの寄付金により、当時の最新技術である鉄骨鉄筋コンクリートの技術を用い、博物館として豊臣・徳川に続く3度目の大阪城天守閣が完成しました。

第二次世界大戦で被災した大阪城は、平成7年(1995年)より2年の歳月をかけ、大規模な改修工事が行われました。

江戸時代に造られた大坂城をモデルにしつつ、耐震強化やエレベーターの設置など、多くの人に親しまれる工夫が凝らされ、現在の大阪城となりました。

そして、平成9年(1997年)には大阪城天守閣が国の登録有形文化財として認定されます。

大阪城(大坂城)にまつわる伝説や逸話

坂城には妖怪が住んでいる!?

大坂城に妖怪が住んでいたという逸話は、江戸時代の書物『金城聞見録きんじょうぶんけんろく』に残されています。

城に駐在して城を警護する役職である定番じょうばん

代々、大坂城の京橋口の定番となる者には、妖怪に憑かれたり、在任中に亡くなる者が多くいました。

そのため、京橋口定番屋敷には社が祀られ、新任の定番がきたら小祠を奉納するのが習わしとなっていたそうです。

そんな中、京橋口の定番として新しく入った戸田大隅守とだおおすみのかみが、今までの定番が奉納してきた小祠を取り除いたところ、巨大な古狐の姿をした妖怪が現れます。

激しい戦いの末、定番が長年苦しめられてきた妖怪を戸田大隅守が無事退治!

という逸話です。

坂城に巨大な怪獣が現れた!?

江戸時代、庶民にニュースを届けた瓦版。

慶応2年(1866年)に、なんと大坂城の南の堀で怪獣の死骸が発見されたと言う噂が掲載されました。

その時の瓦版には、怪獣の姿のイラストや発見日時、怪獣の大きさ、体の色などについて書かれていたそうです。

発見された怪獣の死骸は体長2m以上、体重100㎏以上あったとされています。

この怪獣の正体については、怪獣が発見される約20年程前にサンショウウオが大坂城に放流されたことから、実はサンショウウオなのではないかと推測されていますが、真相は定かではありません。

の日の大坂城には竜と虎が現れる!?

重要文化財にも指定されている「桜門」にまつわる逸話で、こちらも『金城聞見録きんじょうぶんけんろく』に残されています。

それは、雨の日にだけ桜門の右側にある石に竜が、左側にある石に虎の姿が現れるというお話です。

ただ、戌辰戦争で桜門は焼失してしまい、現存する桜門は明治20年(1887年)に復元されたもののため、桜門に浮かび上がる竜と虎を実際に見た人はおらず、逸話として語り継がれています。

大阪城の重要文化財

①桜門

先ほどの大阪城の逸話でも登場した「桜門」は、本丸の正面入り口にある門です。

門の両側には大きな竜石と虎石と称する巨石があり、堂々たる存在感を示しています。

現在見られるのは、明治20年(1887年)に整備された姿です。

桜門からは大阪城天守閣をバランスよく望めることができるため、現在は一大観光スポットとなっています。

千貫櫓せんがんやぐら

「千貫櫓」は、元和6年(1620年)に造られた大阪城内で最も古い建築物の一つ。

大手門から攻め立てる敵を横矢で防御するための、城内で最も重要な場所に建つ櫓です。

多聞櫓たもんやぐら

「多聞櫓」は、続櫓つづきやぐら渡櫓わたりやぐらがあり、大手門を入った場所に位置しています。

寛永5年(1628年)に徳川幕府の再工事時に建造され、のちに焼失しました。

現在の姿は、嘉永元年(1848年)に再建されたものです。

④大手門

「大手門」は、大阪城の正面に設けられた門で、寛永5年(1628年)の徳川幕府による再建築時に建造されました。

「大手門」の特徴は、腐食による根継の技術。

東西の両面は下の柱が凸型の「蟻継ぎ」、南北両面は山型の「殺ぎ継ぎ」が施され、一見するとどの方向からもはめこむことのできない複雑な継ぎ手になっています。

日本の建物では、大手門でしか使われていない技術と言われているほど貴重なものです。

金蔵きんぞう(かねぐら・かなぐら)

「金蔵」は、宝暦元年(1751年)に築造され、 徳川幕府の政権時に幕府直営の金庫として使われていた建物です。

通常の出納用と非常用の金銀保管場を設けたり、防災や防犯に優れた鉄格子を設けたりするなど、金庫ならではの工夫が施されています。

焔硝蔵えんしょうぐら

現在の「焔硝蔵」は、貞享2年(1685年)に創建された火薬(焔硝)を貯蔵した櫓のことを指します。

かつては大坂城内にいくつも焔硝蔵があったようですが、万治3年(1660年)に起こった落雷により、火薬が大爆発し焼失してしまいました。

そこで、より頑丈な作りの現在の「焔硝蔵」が新築されました。

蔵と聞くと木造建築を思い浮かべますが、大坂城の焔硝蔵は石造りで、銅製の二重扉や通気孔が取り付けられているのが特徴的です。

⑦一番櫓

「一番櫓」は、二の丸南側の石垣上に建っていた2層2階の7つの隅櫓のうち、最も東に位置する櫓で、寛永5年(1628年)に創建されました。

16個もの窓や、鉄砲や矢を放つための狭間さまが多数設置されているのが特徴的。

7つの隅櫓のうち、現存するのはこの一番櫓と六番櫓の2基のみとなっています。

⑧六番櫓

「六番櫓」は7基の隅櫓のうち、東から6番目にあたる櫓です。

一番櫓と同様、2層2階造りで寛永5年(1628年)に創建されました。

南面と西面に石落としが設置され、26個もの窓に覆われるなど、外敵に備えた堅固な造りをしています。

乾櫓いぬいやぐら

「乾櫓」は、大阪城二の丸の西北に位置する櫓で、「千貫櫓」とともに大阪城内で最も古い建造物として知られています。

“乾”とは西北を指すことから、この名前がつきました。

乾櫓はL字型の建物で、1階と2階が同じ床面積である総2階造りの珍しい形式の二重櫓です。

金明水井戸屋形きんめいすいいどやかた

「金明水井戸屋形」は、寛永元年(1624年)に掘られ、寛永3年(1626年)に屋根(屋形)が創建された、天守閣の入り口付近にある井戸です。

井筒は一個の石からくりぬかれて造られています。

“豊臣秀吉が水の毒を抜くために黄金を沈めた”という逸話が残されていることでも知られています。

しかし、豊臣秀吉没後に創建されたことから、この伝説は事実ではないことが明らかになりました。

大阪城(大坂城)の見どころガイド

天守閣」から外を眺める

8階の展望台と2階~7階の展示資料館から成る大阪城天守閣。

現在の姿は、昭和6年(1931年)に市民の寄付により建造された時のものです。

大阪城や豊臣秀吉に関する歴史資料やミニチュアの大阪城が見られる他、3階の展示室には黄金の茶室があり、秀吉の時代に栄えた優美な茶室が原寸大で復元されています。

8階の展望台は、大阪城一帯と大阪市内を一望でき、秀吉が味わった天下統一の気分を体感できますよ!

迫力の「石垣」

大阪城の石垣は、徳川幕府政権時に再建されたものがそのまま残されています。

中でも本丸東側にある、日本の城郭でもっとも高い約32mの石垣は一見の価値あり!

また、桜門をくぐった正面には重さ約108tの圧巻の蛸石があり、岡山県産の花崗岩を使用しています。

大阪城(大坂城)と一緒に楽しみたい!周辺観光スポット

阪城公園の桜

大阪城を中心に整備されている大阪城公園。

実は、関西屈指の桜の名所で、開花宣言の目安となる大阪府の「桜の標準木」が設置されている場所です。

「西の丸庭園」には約300本ものソメイヨシノが咲き誇り、多くの花見客が訪れます。

さらに、桜シーズンには夜桜のライトアップが!

明かりが灯った桜と、堂々とそびえ立つ大阪城の幻想的なコラボは絶景です♪


ライザ大阪城

「ミライザ大阪城」は、平成29年(2017年)に天守閣横に開業した複合施設です。

昭和6年(1931年)に建てられた旧第四師団司令部庁舎(元大阪市立博物館)の歴史ある外観を活かして造られています。

施設内には、お土産屋やカフェ、レストラン、展示室などが入ります。

3階のレストランはルーフトップテラスになっており、目の前に大阪城天守閣を望む絶好のロケーションです!

※営業時間や休業日は店舗ごとに異なりますので、詳細は公式HPよりご確認ください。

ョーテラスオオサカ

「ジョーテラスオオサカ」は、“歩いてお茶して、緑の中の城下町”をコンセプトとした複合施設です。

JR大阪城公園駅直結で、21店舗ものカフェやレストランが軒を連ねています。

特にお好み焼きやたこ焼き、パンケーキなど気軽に食事を楽しめるお店が多いので、家族や友達、カップルでのお出かけにピッタリ♪

※営業時間や休業日は店舗ごとに異なりますので、詳細は公式HPよりご確認ください。

大阪城(大坂城)のアクセス・営業時間

阪城へのアクセス方法

所在地
〒540-0002
大阪市中央区大阪城1-1

交通機関をご利用の場合

大阪メトロ 
谷町線「谷町4丁目駅」1‐B番出口 ・「天満橋駅」3番出口
中央線「谷町4丁目駅」9番出口・「森ノ宮駅」1番出口、3‐B出口
長堀鶴見緑地線「森ノ宮駅」3‐B出口・「大阪ビジネスパーク駅」1番出口

JR
大阪環状線「森ノ宮駅」・「大阪城公園駅」
東西線「大阪城北詰駅」

京阪電車 「天満橋駅」

大阪シティバス
62系統「大阪城大手前」・「馬場町」 

車をご利用の場合

【神戸方面から】阪神高速 13号東大阪線 法円坂出口
【東大阪方面から】阪神高速 13号東大阪線 森之宮出口

一般乗用車用の駐車場は「大阪城公園駅前駐車場」、「森ノ宮駐車場」の2か所あり。

8時~22時までは1時間350円、22時~8時までは1時間150円です。

団体バス用の駐車場は「城南第1駐車場」、「城南第2駐車場」の2か所あり。

8時~22時までは1時間1,500円、22時~8時までは1時間500円、18時~8時までは最大5,000円です。

阪城の営業時間・料金

営業時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:12月28日~1月1日
料金:大人600円、中学生以下無料(要証明)

情報は変更となる場合がございます。詳細は、公式サイトをご確認ください。

おわりに

本記事では、現在の姿が出来上がるまでの大阪城の歴史を遡り、見どころをお伝えしてきました。

豊臣秀吉のイメージが強い大阪城ですが、実は現在見られる大部分は、江戸時代以降に造られたもの。

現在の天守の姿も、江戸時代の大阪城を模して造られたものです。

焼失と再建を繰り返しながらも常に大阪のシンボルとして栄えてきた大阪城。

建築の背景や歴史、重要文化財を知り、観光だけではない広い目で大阪城を楽しんではいかがでしょうか?