博多人形師とは
「博多人形師」とは、素焼きの陶器人形に色付けした、福岡県を代表する国指定の伝統工芸品(伝統的工芸品)である博多人形を作る職人(伝統工芸士)のことをいいます。
全国には素焼きの陶器に色付けした土人形と呼ばれる郷土玩具が数多く存在しますが、博多人形ほど細やかな造形で華やかな色彩の人形はありません。
今回は、博多人形を作る博多人形師にスポットを当ててお話します。
経済産業大臣が指定した「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」に基づいて認められた伝統工芸品のことを指す。
要件は、
・技術や技法、原材料がおよそ100年以上継承されていること
・日常生活で使用されていること
・主要部分が手作業で作られていること
・一定の地域で産業が成り立っていること
博多人形とは、福岡県福岡市博多地区を中心に生産されている伝統工芸品の素焼き人形です。2018年現在、37名の人形師が伝統工芸士に認定されており、伝統的な題材から現在の世相を反映したものまで様々な作品が作られています。 今回はそんな博多人形について歴史や作り方をご紹介します。
伝統工芸士とは、経済産業大臣指定の伝統的工芸品の製造に従事する技術者かつ高度な技術・技法を保持する職人のことであり、国家資格です。この記事では、なるにはどうしたらよいのか、伝統的工芸品の種類や伝統工芸士の資格・認定について、女性工芸士の活躍のほか、もっと伝統的工芸品に触れるために活用したい施設などをご紹介します。
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博多人形師・白水六三郎(しろうずろくさぶろう)と博多人形の近代化
博多人形は、博多人形師と呼ばれる職人たちの手によって製作されています。
博多人形師になるには、古くは師匠となる人形師に弟子入りして寝食を共にし、数年は無給で師匠に奉仕をしながらその技を習得します。
習得するといっても教えてもらえるのではなく、下働きをしながらその技を盗むといったものでした。
博多人形は記録として確かなところでは江戸時代後期に、博多区で陶師(陶芸職人のこと)を生業としていた中ノ子家の吉兵衛が素焼きの陶人形の製作を始めたことが起源とされています。
そして、その孫弟子に白水六三郎が生まれました。
白水六三郎は玩具でしかなかった素焼き人形を、美術品の域にまで高めた人物として知られています。
彼は「温故会」という作品向上を目的とした勉強会を立ち上げ、明治期の九州を代表する南画家の一人・上田鉄耕の家で作品の批評を受けたり、福岡の洋画家の矢田一嘯から人体の構造や絵筆の使い方など西洋の絵画技法に指導を仰いだりと貪欲に自らの作品に取り入れていきました。
また、大正期になると京都帝国大学福岡医科大学の桜井恒次郎教授から解剖学を習いリアリティを追求し、彫刻家で帝国技芸員※1の山崎朝雲や帝国美術院会員※2で「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家・朝倉文夫からも石膏で型を取る技法などの指導を受け、博多人形の量産化を可能にしました。
こうして西洋の近代的な物の捉え方や技術を習得し、なおかつ日本的な美意識を持った白水六三郎の作品は他の土人形とは異なりまるで人間のような躍動感や鮮やかな色彩があり、その作品の出来の素晴らしさから彼の元には多くの弟子が集まりました。
現在の博多人形師の師弟関係の多くは白水六三郎の系譜にたどり着きます。
※1 帝国技芸員:戦前の宮内庁管轄の美術工芸分野の顕彰制度で、現在の人間国宝に相当する。
※2 帝室美術院 美術分野における国の栄誉機関で、現在の日本美術院の前身
博多人形師と博多人形の発展
意外と知られていませんが、戦前の博多人形の多くは海外に輸出されていました。
その契機を作ったのが白水六三郎の弟子で、「名人与一」の異名をとる小島与一です。
彼は小学校で白水六三郎の「温故会」に参加していた上田鉄耕のもとで絵の手ほどきを受けた後、白水六三郎に入門します。
厳しい修行の中で白水六三郎の技術や物の捉え方を習得した彼は、20歳の時に独立。
国内外の展覧会に積極的に出品します。
そして、1924年にパリ万博に出品した『三人舞妓』が銀牌※3を受賞。
※3 牌は表彰盾やメダルのこと。オリンピックに例えれば銀牌は銀メダルになります。
この作品は中州の「福博であい橋」にブロンズ像として再現されています。
また、与一と共に六三郎の同門であった原田嘉平と置鮎与市も銅牌を受賞します。
そして「HAKATA DOLL」として欧米で高い評価を受けた博多人形師たちに、海外から多くの仕事が舞い込みます。
特に多かったのはキリスト教の教会に飾る聖人像で、白水六三郎の下で習得した西洋的な塑像※4の表現方法が大変役立ちました。
※4 塑像(そぞう):粘土や石膏を材料として作った像
こうして仕事が多くなると、小島与一の元に多くの弟子が集まり、門下生は延べ40名以上になりました。
しかし、第二次世界大戦が激化すると、物資の供給が滞るようになり人形制作の維持が困難になります。
当時、組合長になっていた原田嘉平は政府の商工省と交渉して、博多人形師への「工芸技術保存資格者制度」の適応を認めさせ、博多人形の維持に尽力します。
戦後、彼らの努力が認められ、1966年に小島与一、原田嘉平、置鮎与市、白水八郎、中ノ子タミが福岡県無形文化財保持者に認定されました。
戦後の与一は「美人物」「歌舞伎物」「能物」「童物」などといった現在の博多人形のモチーフとなる題材を数多く手がけるようになります。
特に歌舞伎が好きで、数多くの作品を世に送り出しました。
実は、それ以前の博多人形の多くは神仏をモチーフにしていたのです。
与一はヘラをほとんど使わず親指だけで成型するという独自のスタイルで、しかも作品製作がとても速く、たった1日で見て感じた物の原型を完成させていました。
こうして与一によって博多人形のスタイルが多様化すると、博多人形業界全体の底上げになりました。
私たちが博多人形で伝統的な題材として思い浮かぶモチーフのほとんどは、与一らによって昭和30~40年代(1955~1975)に製作されたものだったのです。
人材育成に「博多人形師育成講座」がある
博多人形師になるには、最近まで現役の人形師に弟子入りするというのが中心でした。
しかし、弟子の間はほぼ無給のため、昨今の若者はなかなか博多人形師を職業として選ばなくなっています。
そこで博多人形主御工業協同組合主催で毎年「博多人形師育成講座」を開き、博多人形の担い手の募集が行われています。
育成講座と言っても誰でも簡単に習えるわけではなく、書類審査もあれば面接もあります。
その後、晴れて受講が認められれば、週1回10ヶ月に渡り全40工程を一流の技術を持つ博多人形師からその技を教えてもらえます。
さらに、最後は作品発表会まで催されます。
この育成講座から本格的に独立した博多人形師も現実に現れています。
このように、モチーフもさることながら人材育成にも柔軟性があるところに、新しいものを積極的に取り入れる博多っ子らしい気質を感じます。
博多祇園山笠と博多人形師の関係
博多には1241年から続く博多祇園山笠というお祭りがあります。
この祭りでは神輿のように氏子※5が担いで疾走する「舁き山笠」と、高さ10mに及ぶ展示用の「飾り山笠」が作られます。
※5 氏子: 氏子とはその地域を守護する神道の氏神様を信奉する人たちのこと。
この「舁き山笠」と「飾り山笠」には大小さまざまな人形が飾られます。
その人形の大きさは、時に人をもしのぐほど壮大なものです。
この人形制作も現在は博多人形師が行っています。
もともと山笠の人形制作は京都の人形細工の流れを汲む小堀家が代々独占的に担っていました。
しかし、年1度しかない山笠人形の製作だけでは食べていけず、明治期に人形師の仕事を廃業してしまいました。
一方で博多人形師は一年中人形を作っており造形技術も持ち合わせています。
しかも人数が揃っているので、博多人形師が山笠の人形制作も請け負うようになりました。
山笠の人形と博多人形では素材も大きさも異なります。
博多人形は素焼きの陶器で細かな造形を作り、繊細な筆遣いで美を競います。
一方で山笠の人形は遠くから見ても一目で分かるほど大きく、豪壮な姿とダイナミックな表現が求められます。
また、山笠人形の素材は竹骨に和紙や布を張り、何千もあるパーツを組み合わせて製作するなど根本的に異なります。
山笠はそれぞれの「流(地区ブロックの呼称)」が豪華さを競うよう製作されます。「流れ」は7流あり、一回の祭りでそれぞれ「舁き山笠」と「飾り山笠」を1体ずつ作るので、合計14体の山笠が作られます。
その「流」から仕事を受けた人形師は草案から完成まで3ヶ月もの間、一門総出で人形の製作に励みます。
しかし、祭りで使われるのは僅か2週間。
観光用に保存される山笠を除き、最終日に「山崩し」と呼ばれる解体作業が行われます。
「神が依り代とした無病息災の縁起物」の人形たちは、この山崩しで氏子たちから豪快にはぎ取られてしまいます。
こうして祭りが終わると、博多人形師たちは再び自らの博多人形制作の日々に戻ります。
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おわりに
いかがでしたでしょうか?
博多ではお土産物店などで博多人形を目にする機会は多いのですが、その制作を行う人形師たちの姿はあまり知られていません。
今日福岡を代表する伝統的工芸品として存在感を醸す博多人形は、人形師たちのたゆまぬ努力と時代に柔軟に対応する先進性に培われているのです。
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