「オイッサ!」「オイッサ!」

締め込み※1姿の勇ましい男衆が、山笠を※2、勢い水を浴びながら街を駆け抜ける博多祇園山笠。

毎年約300万人もの観客が訪れる活気のある祭りで、そこには770年余りの伝統があります。

“男の祭り”というイメージが強いかもしれませんが、実は、老若男女大勢の人によって築き上げられてきた祭りです。

この記事では、平成28年(2016年)にユネスコ無形文化遺産登録を果たした、『博多祇園山笠』とは何か、その歴史や特徴を詳しく解説していきます!


※1締め込み:山笠を担ぐ者が着用する儀礼装束。

※2 舁く :肩に物を乗せて複数人でかつぐこと。

博多祇園山笠とは

博多祇園山笠とは、博多の総鎮守そうちんじゅ,※1である櫛田くしだ神社に、山と言われる人形が乗った山鉾やまぼこ※2を奉納する神事です。

福岡県福岡市の博多付近で毎年7月1日から15日にかけて行われます。

京都の祇園祭りの影響を受けていると言われており、「町の人々が疫病にかからずに健康に過ごせるように願う」という目的があるのだそうです。


※1総鎮守:土地全体を守護する神や総社のこと。

※2山鉾 :山車の一種。

多祇園山笠の特徴である「流」

博多祇園山笠は、いくつかの町が再編成された集合体である「ながれ」ごとに運営しています。

戦乱で荒廃した博多の町を復興するために、豊臣秀吉によって行われた天正15年(1587年)の「太閣町割り」によって生まれた自治体が、流の起源とされています。

現在、山笠当番を務めるのは、千代流・恵比須流・土居流・大黒流 ・東流・中洲流・西流の7つの流です。

これらは合わせて“七流しちながれ”と呼ばれています。

重さ約1tにもなる山笠を舁くには、大きな危険が伴います。

博多祇園山笠を成功させるには厳格な秩序が必要とされることから、流の中は縦の連携が連綿と受け継がれているのです。

流の中での役割は子供・若手・中年・年寄に分けられ、それぞれの技量や体力に合わせて動きます。

子供たちは祭りに参加することで、流の大人たちの中で人間関係を学んで一人前の男になり、下の代へと伝統を繋いでいくのです。

博多祇園山笠の歴史

現在の博多祇園山笠では、2種類の山笠が作られます。

一つは男衆が実際に担いで博多の町をき廻るための勇猛な「やま」。

もう一つは福岡の各指定場所に設置される、勇ましい武将の人形などを飾った「飾り山」です。

実は、昔は現在と異なる形で山笠が執り行われていました。

山笠の形態の変化と併せて、博多祇園山笠の歴史を見ていきましょう。

多祇園山笠の起源

博多祇園山笠の起源といわれる説はいくつかあるのですが、鎌倉時代に聖一国師しょういちこくしという禅僧が博多で流行する疫病を鎮めるために、施餓鬼棚せがきだなに乗って祈祷水きとうすいを撒いて町を周ったことが起源であるという説が最も有力とされています。

いつ頃からのぼりを立て、人形を飾った山笠を舁いて町を練り歩くスタイルになったかは不明ですが、貞享3年(1686年)の山笠を描いた「博多祇園山笠巡行図屏風」(福岡市博物館蔵)には、現在と近い山笠が描かれています。

この「博多祇園山笠巡行図屏風」は、江戸時代中期に描かれたと見られる、博多祇園山笠を描いた最古の絵です。


※ 施餓鬼棚 : 施餓鬼で使う祭壇。施餓鬼とは、無縁仏などの霊に供物を施して弔うこと。

続の危機!明治政府の「山笠禁止令」

しかし、博多祇園山笠がすっかり博多の町に根付いた頃、山笠存続の危機が訪れました。

明治6年(1873年)からの10年間、文明開化のあおりをうけ、祭礼は利益のないただの浪費であるとみなされ、博多祇園山笠は政府により禁止されてしまいます。

実際に、当時は山笠が競うように絢爛豪華けんらんごうかになっており、高さはなんと16mに達していたと記録されています!

高い建物がない時代だったため、15km先からでも山笠が見えたのだとか。

しかし、祭りを楽しみにしている人々から、すぐに嘆願の声が上がります。

その後、博多祇園山笠は迂余曲折を経て復活をしましたが、近代化が進んだ博多の町には電線がひかれ、当時の背が高い形態の山笠では運行が困難になりました。

博多の人々は知恵を絞り、実際に舁くための高さ3mほどの「舁き山」と、観賞用の「飾り山」に分けることで祭りの存続を図りました。

現在2種類の山があるのは、このためです。

後に復活して以来、初の開催見送り

770年余りの伝統がある博多祇園山笠。

新型コロナウイルス感染拡大防止のために、残念ながら令和2年(2020年)から2年連続で舁き山が延期となりました。

しかし、疫病退散を祈願する神事は関係者によって無事に執り行われ、櫛田神社の飾り山のみが公開されました。

令和3年(2021年)には2年ぶりに市内各地で絢爛豪華な飾り山が公開され、博多祇園山笠を待ちわびる人々の目を楽しませました。

祭り期間中の行事

博多祇園山笠は、祭り期間中にさまざまな行事が行われます。

特に祭りの初日には神事が行われ、祭り期間中の無事、安全を祈るお祓い、「注連下しめおろし」、山笠に神様を招きいれる「ご神入しんいれ」が行われます。

このご神入れをもって山笠は神様の依り代となり、一般の人が触れることができなくなります。

そして、夕方には、みそぎのために汐井しおい(砂や小さい石)を浜辺に取りに行く「お汐井取り」という重要な神事が行われ、祭りの安全を祈って夕日に柏手を打ちます。

そして、10日頃になると、「舁き山」の練り回りがはじまります。

流舁ながれかき」と呼ばれる、それぞれの地区で山笠が担がれはじめる行事を皮切りに、11日の午前5時から山笠が地域をまわる「朝山あさやま」や、自らの地域以外で山笠を担ぐ「他流舁たながれかき」が行われます。

そして、7月12日頃になると、最終日の15日に行われる「追山笠」にむけての最終調整がはじまります。

「追山笠」では、山笠を担いで走るタイムを競うので、7月12日の「追い山ならし」で、追い山笠とほぼ同じ約4㎞のコースを駆け抜けて予行演習を行います。

また、祭りの期間中は、市内各所に豪華な「飾り山笠」が置かれます。

大きなもので高さ約12mあり、博多人形師の熟練の技が光ります。

飾りのテーマは武者人形などの日本の歴史上の人物が多いですが、最近ではアニメやドラマ、西洋の童話をテーマにしたものもあります。

「飾り山笠」は基本的には動かず、街のあちこちに展示されて、豪華絢爛さで祭りを引き立てます。

博多祇園山笠のみどころ「追山笠」

祭りのみどころは、何と言っても「追い山」と呼ばれる各地区の山笠がスピードを競う行事です。

実は、江戸時代初め頃の山笠巡行は途中で昼食をはさみながら行う、比較的のんびりとしたものでした。

山笠人形師が技を尽くした豪華絢爛な山を舁いて練り歩き、山の出来の良し悪しで競っていたのです。

しかし、貞享4年(1687年)に起こったある出来事を境に、博多祇園山笠の雰囲気はがらりと変わります。

その年の3番山笠の土井流が昼食をとっていると、4番山笠の石堂流(現在の恵比須流)が土井流を追い越してしまいます。

きっかけは、事件前に土居流の者が石堂流の者に行った、ささいな悪ふざけへの仕返しによるものと櫛田神社の記録に残されています。

石堂流の山に追われる土居流の山も負けじと走り、その迫力あふれる攻防が博多の町の人々の気持ちを沸き立たせました。

この事件が、博多祇園山笠で「速さ」を競うようになった起源といわれています。

そんな、博多祇園山笠のクライマックス「追い山」。

重さ1t以上の舁き山笠を“舁き手”と呼ばれる男衆、20人以上が「オイッサ、オイッサ」と担いで、全長5㎞の距離を全速で走ります。

七つの流がそれぞれ持っている山笠に、1番から7番まで番号がつけられます。

大太鼓の合図で一番山笠から約5分間隔で順にスタート。

まず櫛田神社に入って山笠が奉納され、境内を出てからゴールまでの5㎞を全速力で走ってタイムを競い、沿道からも応援で水がかけられます。

最終日の15日に行われ、祭りのクライマックスともいえる最大の見せ場ですが、始まるのはなんと早朝、午前4時59分。

しかし、舁き手が7000人以上に加え、見物客も300万人を超えるといわれ、たくさんの人が駆けつけます。


※正式名称は「追山笠」。「追い山笠」「追い山」という表記もある。

追山笠のオススメ見学スポット

田神社一帯

山笠が次々に神社に入り、夜明けの博多の街へ出ていくのを見ることができます。

熱気を一番感じることができますが、そのぶん見物客も多いです。

町筋

博多の街に昔からある縦筋の一つ、東町筋を浜に向かっていっきに山笠が駆け下ります。

旧魚町の下り坂なので、昔の雰囲気が残る場所で山笠が見られる、味わいのあるスポットです。

博通り

昔の呉服町筋。

歩道も広く、安心して見ることができるので、団体や親子連れ向きです。

崎町の廻り止め一帯

最後の廻り止めに向かって山笠が一気に向かいます。

それぞれの山笠が、残ったエネルギーを爆発させる場所なので、掛け声にも力が入ります。

そして、走り終えた舁き手の達成感のある表情を見ることができます。

山笠と博多

博多には、「山笠のあるけん博多たい」というキャッチコピーで有名なコマーシャルがあるそうです。

博多の人は、博多に山笠を支える人あってこそ実現する祭りなので、「博多のあるけん山笠たい」が正しくて、このキャッチコピーは逆ではないのかと、異口同音に言うそうです。

山笠にはたくさんの人が必要なため、山笠のために町に人が集まってきてもいます。

例えば、博多のある町では住民自体が少なく、昼間に人がいないのですが、山笠の時期には他所からも人が集まってくるのだそうです。

もちろん、単なる人の集まりだけでは山笠は動かせないので、古老といわれる地域のリーダーを中心に人と人を繋いでまとめていきます。

そして、そういうリーダーを皆が「お父さん」と呼んで慕い、何の関係もなかった人たちがひとつの家族のように毎年集ってくるのだそうです。

山笠が人を魅了し、山笠のために人が集まってくる、この姿は祭りがある限り、これからも続いていくでしょう。

そう考えると、山笠は人の絆をつくり、やがて町をつくっていく可能性を秘めた偉大なお祭りだと思うのです。

おわりに

現在では、京都祇園の山鉾行事とともに国の重要無形民俗文化財にも指定され、日本を代表するお祭りの一つとなった「博多祇園山笠」。

その活気に魅せられて、町おこしのために博多祇園山笠を真似た地域もあります。

北海道芦別市では「芦別健夏けんかまつり」という山笠が開催されており、令和6年(2024年)には52回目を迎えます。

このように、「博多祇園山笠」は全国的に愛されています。

今年の夏も、その熱気と歓喜で博多の町中が包まれることでしょう!

実際に博多祇園山笠を見てみたい方はこちらからどうぞ!↓