日本には有名な庭園が数多くありますが、それを造った庭師・作庭家のこととなると、ピンとくる名前は少ないのではないでしょうか。

江戸時代以前は庭園を造る専門家は存在せず、僧侶や茶人として知られる人物が自分好みの庭園を造っていました。

江戸時代になり大がかりな庭園が流行すると、将軍家が専属の御庭師・御庭掛などを雇って庭園の管理を行わせていき、庭園を造り管理していく、庭師という専門の職業が誕生することになります。

明治以降には植木の職人や石工が造園業を営むようになり、一般の民家でも庭園を造ることが広まっていきます。

また、学問として造園を学んだインテリの作庭家も誕生し、庭園の文化はますます発展していったのです。

禅の名僧、夢想疎石

禅の名僧、夢想疎石むそうそせきとは、江戸時代以前に著名な庭を数多く造ったのは、何といっても南北朝時代に活躍した夢想疎石です。

臨済宗※1の高僧でもあった疎石は、当時政治の中心だった鎌倉や京都を避け、地方を転々としながら、自らの禅の境地を庭園を通じて表現しようとしてきました。

その庭園の特徴は、周囲の景観を活かした自然への強いこだわり、そして石組により禅の世界を表現した、高い哲学性です。

※ 1臨済宗:日本にある5つの禅宗の宗派の1つ。禅宗は中国から日本にもたらされた仏教であり、鎌倉時代以降に広く普及するようになった

疎石の代表的な庭園として挙げられるのが嵐山の天龍寺です。

禅宗の教えに従い、庭園は門の向こうの寺院の建物のさらに奥に、嵐山の絶景を背にするかたちで広がっています。

曹源池と呼ばれる池には、滝を表現した石組が中央にそびえ、その前には石橋と複雑に入り組んだ入り江が広がっています。

背後の山々に見事に調和したこの石組と池の絶妙な配置こそが、夢想疎石の真骨頂と言えるでしょう。

大名茶人、小堀遠州

大名茶人、小堀遠州こぼりえんしゅうとは安土桃山時代、茶道の流行とともに広まった露地(茶庭)※2の芸術性を極限まで高めた人物がこの小堀遠州です。

※2 露地(茶庭)とは、茶室に付随する庭園の通称です。

また、小堀遠州という名前も通称であり、本名は小堀政一です。

彼は備中国(岡山県)の一部を領有した藩である、備中松山藩の藩主です。

つまりはお殿様でもあり、当代一の茶人として将軍家の茶道の先生でもありました。

遠州の茶庭は「きれいさび」と呼ばれ、植物で季節感を演出し、地面を覆う石にも洗練されたデザインを求めました。

遠州は庭園を造るだけでなく、建物のデザインにも優れていたため、彼の庭園は建築物との調和も非常に見事になされています。

その最高傑作とされるのが、京都市北区にある孤篷庵こほうあんの茶室・忘筌ぼうせんです。

茶室に至る茶庭を建物の中から眺めると、左右の柱、天井から上半分を覆う障子、そして床先によって、景色が長四角に切り取られて見えるようになっています。

茶庭から見える茶室、そして茶室から見る茶庭、この2つが一体となるようデザインされているのです。

近代日本庭園の先駆者、小川治兵衛

近代日本庭園の先駆者小川治兵衛おがわじへえとは、明治時代に庭師として活躍し、数多くの名園を手掛けたのが、「植治」こと七代目小川治兵衛です。

通称で小川植治とも言われていました。

植治は最初、京都の伝統的な庭師として活動していましたが、総理大臣にもなった山縣有朋やまがたありともの命を受けて無鄰菴を造ってから、景色を美しい景色を池や山を築くことで具体的に庭園の中に再現するという独自のスタイルを確立しました。

妥協をしないことでも知られ、当時絶大な権力を持っていた山縣有朋を前にしても、庭園に関してはまったく物おじせず意見を言ったという逸話が残っています。

植治の手掛けた庭園の中で最大のものの1つが、京都市岡崎にある平安神宮の神苑です。

平安京遷都1100年を記念してつくられた平安神宮は、明治政府による一大事業であり、神苑を担当した植治にも相当の期待が寄せられました。

庭の石は伏見城の跡地から払い下げてもらい、石橋は鴨川に架かっていた三条・五条大橋の石を加工したものを用いることで、植治は最新の技術と京都の歴史の融合を、この庭園で成し遂げてみせたのです。

モダン枯山水、重森三玲

モダン枯山水、重森三玲しげもりみれいとは、昭和の作庭家で初めは画家を目指し、のちに茶や生け花などの伝統芸能の研究に取り組んだ変わり種です。

なんと日本庭園を独学で学習し、全国400以上の古庭園の実測調査を行い庭園研究家として名をあげました。

もちろん庭づくりにも精力的で、その生涯で200を超える庭園に関わったとされています。

重森三玲の庭園の特徴は、力強い石組を中心とした枯山水で、”純粋な芸術”としての庭園を目指していました。

代表作となるのは京都市東山区にある東福寺方丈庭園で、縦に鋭くそびえる石組と横にどっしりと座る石組の両極端な2つの石組が絶妙に配置されています。

さらに端の小さな築山は緑の苔に覆われており、白い砂と新緑の苔のコントラストもまた、高い芸術性を見せてくれます。

雑木の庭、飯田十基

雑木の庭、飯田十基いいだじゅうきとは昭和に活躍した作庭家で、若いころに数々の名庭師のもとで修業を積み、後に独立して自分のスタイルを確立した、いわば叩き上げの職人です。

飯田はその生涯で一般住宅の庭園を数多く手がけ、周囲の環境、そして建物との調和を重視した、自己主張の少ない庭園を目指していくことになります。

飯田が最終的に行き着いたのは、彼が活躍した東京の風景を生かした、「雑木の庭」と呼ばれるものでした。

庭園を造るときにも残せる木々はできるだけそのままにし、必要ならば雑木を植えて景観を造りました。

その際使う木々もクヌギやコナラといった、周囲の林にあるようなもので、桜や竹といった格式高い木々は用いませんでした。

そのため、東京都世田谷区の等々力渓谷公園(下記画像)の日本庭園など、飯田の造った庭園はどこか懐かしく、見る人にとって心地よいものになっています。

優れた庭園の影には、必ず優れた作庭家・庭師がいるものです。

彼らは依頼主の要望に応えるだけでなく、自らの哲学をもとにした世界を庭園の中に表現しようとしてきました。

庭園を形造る池や風景や石組だけではなく、庭園を造った人々の経験と世界観もまた庭園の美しさを支えているのです。