
大阪浪華錫器とは
大阪浪華錫器とは、大阪府大阪市周辺の地域で作られている金工品です。
錫という金属を原材料として、和・洋酒器や茶器、花器などのうつわものや、神具・仏具など、様々な製品が作られています。
昭和58年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品に選ばれました。
大阪浪華錫器の歴史
日本に錫器が伝わったのは7世紀の初め頃(610年前後)、遣隋使の手によるものと言われています。
この頃の日本は飛鳥時代にあたり、天皇を中心とする中央集権国家が出来た時代でした。
当時、錫は金や銀に並ぶ貴重品であったため、宮中で用いられるうつわや、神社仏閣で使われる神仏具など、一部の限られた人々の間でのみ使用されていました。
奈良の正倉院には、錫の薬壺(薬を入れる壺)や、佐波理(錫と銅の合金、青銅の一種)の水瓶や皿などが、今も宝物として保存されています。
日本での錫器の生産は、日本で初めて錫鉱山が開かれた京都の丹波地方で始まりました。
1690年に出版された「人倫訓蒙図彙」(あらゆる身分・職業の簡単な解説と図解が描かれた辞典)には、江戸時代初期(1603〜1715年頃)の錫師(錫の加工を生業とする職人)の仕事場の様子が描かれています。
大阪では、江戸時代中期(1716〜1829頃)に、心斎橋や天神橋など流通が盛んな地域に産地が形成され、産業へと拡大していきました。
採掘技術が発達し、薩摩(現在の鹿児島県)などに新しい錫の鉱脈が発見されたこともあり、錫器の製造も増大していきます。
昭和初期頃(1926〜1950年頃)には最盛期を迎え、大阪全体で300人を超える職人が活躍しました。
この頃には、錫器は高級品ではあっても、一般の家庭でも広く使われるようになっていました。
その後の第2次大戦勃発時には、多くの職人が招集され材料の入手が困難になるなど、錫器の生産自体が厳しく、錫器の歴史とその技術を残す上で大きな打撃を受けることとなりました。
また、日本が高度成長期を迎えた1970年代以降、ステンレスやプラスチックの器に取って代わられ、錫器は一般家庭から姿を消してしまいました。
しかし、錫器の伝統と技術は職人たちの手によって脈々と受け継がれてきていました。
そして昭和58年(1983年)3月、その伝統性や技術などが評価され、当時の通産大臣(現在の経済産業大臣)により伝統的工芸品に指定されました。
錫の器の魅力
錫の魅力
あらゆる飲み物を美味しくしてくれる器
抗菌作用のところでも少し触れましたが、錫にはイオン効果があり、水を浄化する作用があります。
錫の器に入れたお酒は雑味が抜け、口当たりがまろやかに。ジュースは酸味が和らぎ、美味しくなると言われています。
それに加え、錫は熱伝導率が高く、保温・保冷性に優れているので、飲み物をすばやく適温にし、その状態を長く保つことができます。
熱燗は短時間で温まるためお酒の旨みを損なわず、タンブラーに冷たいビールを注げば器も瞬時に冷え、最高の喉越しを味わうことができます。
またタンブラーの内側には手作業で細かな凹凸が施されており、きめ細かく持ちの良い泡が立つように作られています。
冷えたコップにアイスコーヒーを注げば、夏場のおもてなしにも最適です。
おわりに
金属の器というと、現代の日常生活においてはあまり馴染みがないかもしれません。
しかし錫器には先述したように様々な特徴があり、他素材の器では得られないメリットがあります。
白く上品な光沢を持つ錫器は見た目にも美しく、錫のお皿に料理を盛りつければ、普段の食卓に新鮮さが加わります。
まずは錫の器に汲んだ水で、その美味しさを体感してみてはいかがでしょうか。
大阪の地で300年以上もの歴史を紡いできた大阪浪華錫器紀。
職人の手仕事の成果を、ぜひご自分の手や目、舌で感じてみてください。

金工とは金属に細工をする工芸、あるいはその職人のことを指し、金属を加工して作られる工芸品のことを金工品と言います。
日本に金属とその加工技術がもたらされたのは、弥生時代初期、紀元前200年頃のこと。
中国大陸・朝鮮半島から伝わった金工技術によって剣や銅鐸、装身具などが作られ、材料として青銅や鉄が使われていました。

南部鉄器とは、「岩手県南部鉄器協同組合連合会」の加盟業者によって作られている鉄器で、現在は経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されています。
今回は、身近な人へのお祝いだけでなく、海外へのギフトにもぴったりの、洗練された南部鉄器の急須オススメ10選をご紹介します。

肥後象嵌には、鉄の地に布目のような刻み目を入れて金属を密着させる「布目象嵌」や、象嵌する部分を地の部分より深く彫る「彫り込み象嵌」などいくつかの技法がありますが、現在作られている作品はほとんどが布目象嵌の技法によるものです。