肥後象嵌とは

肥後象嵌ひごぞうがんとはおよそ400年程前から、熊本県熊本市を中心に作られている金工品です。

象嵌は「象嵌」「象眼」とも書き、「象」は「かたどる」、「嵌」は「はめる」という意味があります。

ものの名前ではなく技術の名称で、その名の通り鉄の板の表面に細い切れ目をつけ象り、その溝に金や銀など別の金属を嵌め込んで、様々なものに装飾を施します。

鉄砲の銃身じゅうしんや刀のつばに施す装飾として始まり、現在ではブローチや帯留めなどのアクセサリー、小箱や万年筆の装飾など幅広い分野の作品に用いられ、その技術を伝えています。

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肥後の象嵌の作風は、武家文化を反映した上品で奥ゆかしい美・「雅美がび」をあらわすものです。

※金工象嵌には、肥後象嵌だけでなく京象嵌や加賀象嵌など、いくつか種類があります。

繊細で優美なデザインが特徴の京象嵌、斬新で豪華なデザインの加賀象嵌と比べ、肥後象嵌ひごぞうがんの作風は、武家文化を反映した上品で奥ゆかしい美・「雅美」をあらわすものです。

地となる鉄には塗料のようなものを一切使わず、故意に錆びさせることで得られる錆色さびいろを活かした漆黒色に仕上げます。

重厚感を感じさせる漆黒の地鉄に金や銀で表現される模様は、派手さをおさえた上品な美しさを漂わせます。

後継者不足が懸念された時期もありましたが、熊本伝統工芸館による伝統工芸後継者育成事業により後継者の養成がなされ、現在は10名を超える象嵌師が日々作品づくりに取り組んでいます。

この伝統技術を保存するため昭和38年8月に肥後象嵌技術保存会が結成され、平成15年3月(2003年3月)には肥後象嵌が経済産業省から伝統的工芸品に指定されました。

肥後象嵌の歴史

鉄に金や銀をはめ込む象嵌の技法はシリアの首都であるダマスカスが発祥とされ、日本へは飛鳥時代(592〜710年)にシルクロードを通って伝わってきたとされています。

肥後象嵌ひごぞうがんの始まりは江戸時代初期(1603〜1680年頃)。

最初に始めたのは林又七(はやしまたしち)という人物であったと言われています。

豊臣秀吉の家臣であった加藤清正が肥後の国をおさめていた頃に、鉄砲鍛冶として仕えていました。

1632年(寛永9年)に加藤家改易(かいえき:大名などの武士から身分を剥奪してその所領や屋敷などを没収する刑罰)の後、代わりに肥後藩主となった細川忠利に召し抱えられます。

又七は京都で布目象嵌ぬのめぞうがんの技術を習得すると、銃身に象嵌を施した鉄砲を作るようになりました。

布目象嵌は、鉄の表面に多方向から細い切れ目を入れ、その切れ目に金銀等を打ち込む象嵌技法です。

後に鐔師つばし:刀の鐔を作る職人に転向し、肥後鐔(ひごつば)の制作にあたるようになります。

また、忠利の父である細川忠興は上品で優美な趣を好み、八代に隠居の際鍛治の名匠たちを召し抱えました。

各家はお抱え工として刀装金具制作の技を競い合い、多くの名品を後世に残しました。

このように細川家の庇護の元、肥後象嵌の技術は磨かれ発展していきます。

江戸時代末期(1793〜1868年頃)には、「林又七の再来」と称された名人「神吉楽寿かみよしらくじゅ1817〜1884年」の出現により、肥後の金工の名声を不動のものにします。

この楽寿は林派の継承者である神吉家の3代目であり、象嵌や透かしなどの精巧な技術を駆使し、鐔や小道具に優れた作品を残しました。

しかし明治維新以後、廃刀令により刀剣金具の需要がなくなると各家の名工たちの大半も転廃業の憂き目にあいます。

衰退してしまったかのように思われた肥後象嵌ですが、装身具や器具の装飾として技術を応用することで活路を見いだし、その伝統を今に受け継いでいます。

現代では、伝統的工芸品として親しまれているとともに、ファッションやインテリアなどの新しい分野にも進出しています。