祇園祭の歴史

京都の祇園祭りといえば、「コンチキチン」の甲高いお囃子に、豪華絢爛な山鉾(やまほこ)巡行。

観光客の多い京都の街が、いっそう人であふれる夏のお祭りです。

特に、山鉾行事はユネスコの無形文化遺産にも登録され、毎年数十万人が見物に訪れるそうです。

しかし、その華やかさの一方で、祭りの始まりは意外にも悲しいできごとがきっかけでした。

祇園祭は、京都の祇園にある八坂(やさか)神社の祭礼ですが、八坂神社という名称になったのは明治の頃(明治元年)です。

神社のはじまりには諸説ありますが、平安時代に藤原基経(ふじわらのもとつね)という人が、北野天満宮のご祭神である菅原道真の怨霊をなだめるために、自宅を寄進してお寺にしたのが最初でした。

そして、その行いが、インドで釈迦に自宅を寄進した、祇園精舎の話に似ていることから、この地を「祇園」と呼ぶようになりました。

そして、この地で行なわれた神事「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」が祇園祭の始まりなのです。

「御霊(ごりょう・みたま)」とは、不慮の事故で非業の死を遂げたり、生前の遺恨を抱えたまま亡くなり、疫病などを起こして生きた人間を祟る霊のこと。

平安時代は、御霊を鎮(しず)めまつることで、疫病から守ってくれる神に変える「御霊会」という神事が、京の都のあちこちで開かれていました。

当時、都では疫病によりたくさんの人が亡くなっており、外来の神「牛頭天王(ごずてんのう)」の祟りではないかと言われていたという説もあります。

この牛頭天王をまつり、怒りを慰めるために行われたのが、「祇園御霊会」で、これこそが、祇園祭の始まりでした。

神仏習合の祭

牛頭天王とは、もともとインドのお寺を守る仏教に由来した神様ですが、非常に荒ぶる神であったため、日本に伝わると同じく荒ぶる神、素戔嗚尊※1(すさのおのみこと)と同じ神様と解釈されました。

※1 素戔嗚尊:伊勢神宮の天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟であり、八岐大蛇(やまたのおろち)退治で有名な神様。

このように元々は別物である、日本古来の神と仏教信仰の神を結びつけて、同じものだと解釈していくことを神仏習合(しんぶつしゅうごう)といい、明治の神仏分離令まで日本は様々な外国の神様を古来の神様の体系のなかに受け入れていきます。

そして、牛頭天王はインドの神様である「武塔天神※2(むとうてんじん)」とも同体と考えられており、祇園祭にも関係のある有名な故事が残っています。

※2 武塔天神:北海の神で、嫁取りに南海に訪れたとされ、自ら「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり」と称している。ゆえにスサノオ(『古事記』における呼称は建速須佐之男命)と同一視される。

武塔天神が旅の途中に裕福な人に宿を頼みましたが断られ、その兄、「蘇民将来(そみんしょうらい)」は、貧しいながらも快くもてなしてくれたのでした。

心打たれた武塔天神は、疫病が流行したら「自分は蘇民将来の子孫だ」と言って「茅の輪(ちのわ)」を腰につけるといいと教えます。

やがて疫病が到来しましたが、蘇民将来の一家は、子孫にわたり、災厄を免れ、繁栄したのでした。

この故事にちなんで祇園祭のお守りには、「蘇民将来子孫也」と書かれたお札がついているものがあります。

有名な粽(ちまき)の形をしたもので、蘇民将来のように災厄を免れたいという願いがこめられたものですが、起源をさかのぼればインドまで辿りつくのです。

インドのヒンドゥー教から、日本の神道。

また、山鉾には僧侶の読経をともなうものや仏様を乗せているものもあることから、祇園祭は異なる宗教の神様が集まって調和しているお祭りともいえます。

動く美術館、山鉾巡行

祇園祭は毎年7月から1ヶ月かけて行われ、おもに神輿渡御と山鉾巡行から成るお祭りです。

なかでも有名なのが、山鉾巡行の美しさではないでしょうか。

美術館でしか見ることができないような逸品が飾られた山鉾は、ひとつひとつにストーリーがあり、細部にまで贅を尽くした芸術的にも高い価値があります。

例えば、近世絵画を代表する画家、円山応挙の肉筆が残る月鉾には、江戸時代の伝説的彫刻師、左甚五郎(ひだりじんごろう)作のうさぎの彫り物がひっそりと同居しています。

そして、タペストリー※3はインドのムガール王朝時代のものがかかっており、国や時代を超えたロマンが感じられます。

※3 タペストリー:壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物の一種

また、中国の斉の国の孟嘗君(もうしょうくん)が、命を狙われ自国へ逃げるとき、家来に鶏の鳴き声のまねをさせて、深夜の函谷関という中国河南省にあった関所を開かせた古事をもとにした函谷鉾(かんこほこ)は、デザインに2つの宗教を取り入れており非常にユニークです。

目の前に旧約聖書をモチーフにしたゴブラン織りタペストリーがかかっているかと思えば、鉾の後ろには弘法大師の書物から引用した文字があり、異質な芸術品が見事に調和してまとめられています。

作った人のセンスには敬服させられますが、山鉾を作る人たちは今も昔も京都の街の人たちなのです。

また、祇園祭りのメインのように感じる山鉾ですが、実は、はじまったのが神輿渡御(
みこしとぎょ)から数百年遅れた南北朝時代からといわれています。

最初は豪華絢爛ではありませんでしたが、室町時代に神輿が出ない時期が続いたことから、町人たちの情熱が山鉾に向き、「動く美術館」と賛美される美しい山鉾を生みだす原動力になっていったのでした。

日本人のおおらかさを感じる祭

ヒンドゥー教や仏教、そして、神道。山鉾の飾りを併せるとイスラム教やキリスト教まで出てくる祭りは、宗教戦争のない日本ならではです。

そして、時代を追うごとに豪華になっていった山鉾は、その時々の美しいものを国や宗教に関係なく取り入れてきましたが、どの時代も決して変わらないこともありました。

例えば、山鉾の中心に通っている木は、疫病をもたらす神が依り憑く依り代(よりしろ)であり、この木で神を遠くへ送り出す意味があります。

かつて牛頭天王という疫神を送り出すために始まった祇園祭の本質が、千年経った今も続いているのです。

日本人が、神道を土台に様々な宗教のよい部分を受け入れてきたように、伝統を守りながら新しいものを取り入れていく、祇園祭りは日本人らしいおおらかさを感じる代表的な祭りではないでしょうか。

ここまで紹介してきたのは祇園祭のほんの一部です。

祇園祭は宗教や芸術といった要素があるだけでなく、7月1日から31日の1か月にわたって様々な神事や行事が毎日のように行われる開催期間の長いお祭りです。

神輿渡御は山鉾巡行と同じ17日の神幸祭(しんこうさい)と24日の還幸祭(かんこうさい)で行われ、それぞれの宵山には駒形提灯が出て、町ゆく人を照らします。

情緒があり、よく知られているのはこのあたりですが、実は後祭(あとまつり)では、個人宅や商店が秘蔵の屏風や道具を披露し、見物客をもてなす屏風祭が行われます。

“動く美術館”である山鉾に対して、“静の美術館”と呼ばれ、こちらも情緒があります。

そして、前祭(さきまつり)では宵宵山と宵山に露店が出ます。

普段車が通る大通りが歩行者天国となり、金魚すくいやお祭りらしい飲食屋台が出て、約100万人が毎年楽しむと言われています。

また、通り沿いの飲食店や甘味処も屋台を出し、祇園祭限定の商品も販売されているそうなので、あわせて巡ることもできるでしょう。

歴史に文化、そして食。

祇園祭は、多方面から楽しめること間違いなしのお祭りです。