「蜻蛉切」は、室町時代に作られた大笹穂槍※で、天下三名槍の一つです。
蜻蛉を真っ二つに切り裂く鋭い切れ味から、「蜻蛉切」と命名されました。
この槍は、徳川四天王ともうたわれた豪傑・本多忠勝が愛用したことでも知られています。
その柄は6m近くもあったとされますが、本多忠勝はこの槍を携えて戦場を駆け巡り、主君・徳川家康を支えて戦国の天下への道を駆け抜けました。
今回は、そんな本多忠勝の活躍も踏まえて蜻蛉切の特徴や魅力、作者、刀剣乱舞との関わりをご紹介します。
※大笹穂槍:槍身の種類。先端が鋭い直槍で、穂(槍の刃の部分)が笹の葉のようなものを“笹穂槍”という。
蜻蛉切とは
「蜻蛉切」の基本データは以下の通りです。
蜻蛉切は、平三角造りの笹の葉のような美しい形をした大笹穂槍で、重量は約499g。
通常の槍は800g以上あるといわれているので、槍の中でも軽量タイプです。
笹穂の形をした穂先は刺突に優れ、刺されると傷口が広くなります。
穂先から下には、古代インドのサンスクリット語の梵字、破邪の剣である“三鈷剣”、そして梵字・蓮台が重ねて彫られています。
天下三名槍
— kaisan36 (@kaisan36) June 7, 2018
大笹穂槍 (蜻蛉切)
岡崎市美術博物館にて、やっと実物を拝見できました。美し過ぎです。
本多忠勝の着用した、有名な黒糸威胴丸具足も同時に展示されていました。 pic.twitter.com/pYnVANHdgM
上部の梵字は上から地蔵菩薩を表わす「カ」、阿弥陀如来を表わす「キリーク」、聖観音菩薩を表わす「サ」が彫られています。
下部の梵字は不動明王を示す「カンマン」です。
この槍は本多忠勝の死後、子孫である三河(現在の愛知県)岡崎藩の本多家に伝わり、第二次世界大戦後に本多家を出て個人の所蔵になりました。
現在は静岡県の指定文化財となり、佐野美術館(静岡県三島市)に寄託され、不定期に展示されています。
なお、記録によると青貝の螺鈿細工の柄が存在したようですが、その柄は現存していません。
また、愛知県岡崎市にある岡崎城内の施設では、「蜻蛉切」のレプリカが展示されています。
槍 について
戦国時代の武器の主流の一つが「槍」でした。
日本では、長柄武器として矛やそれを発展させた長刀が使われていましたが、戦いが一騎打ちから集団戦法へと変わったため、間合いを取れる武器として槍が誕生します。
そして、戦国時代には戦場における主要な武器となりました。
槍には持槍と長槍があります。
このうち、騎馬武者が使う持槍は2m前後の長さのものが多く、この槍を奮って敵を叩き落としたり、突いたりしました。
そのため、持槍を扱うには大変な技術が必要だったようです。
一方、長槍は足軽が集団で用いた槍です。
長槍は6m以上ある長いものもあり、集団で敵に向けて穂先を並べ、敵の進撃を阻みました。
これを槍衾といいます。
敵にはこの槍衾の弱いところが狙われるため統率が必要でしたが、槍の技術は求められませんでした。
長槍は技術が必要なくても使えるよう、直線状の槍穂が多かったようです。
一方で、持槍は敵を仕留めやすいように十文字の形状をした十文字槍や鎌形の矢がついた片鎌槍なども作られました。
蜻蛉切の特徴と魅力
蜻 蛉切の名前の由来
「蜻蛉切」の名前は、この槍の穂先にとまった蜻蛉がそのまま真っ二つに切れてしまったことが由来とされています。
または蜻蛉がとまったのではなく、「槍の達人・本多忠勝が飛んでいる蜻蛉を槍で斬り落とす」といわれていたことにちなんだ、という説もあります。
いずれにしろ、恐ろしいほどの鋭い切れ味ですよね。
なお、切れ味とは別の説もあります。
徳川家康が「忠勝のこの槍のおかげで自分は日本を手に入れたので、名を日本切に」といったのを本多忠勝が遠慮して、日本の形と似ている蜻蛉の名前を用いたという説もあるようです。
蜻蛉の古名は、秋津(あきづ)といい、「秋に多くいづる」を略したものといわれています。
そして古代、日本の本州は秋津島と呼ばれていました。
日本書紀によれば、山頂から国を一望した神武天皇が「秋津(蜻蛉)の交尾のような形だ」といったことから、日本のことを秋津洲と呼ぶようになったとしています。
天 下名三槍の一つ
天下三名槍、日本号、御手杵、蜻蛉切の名前と説明が付き12月からの公開準備が完了しました。槍とふれあう会では展示してある三名槍も持って撮影して頂くことが可能です。三名槍を合わせて撮影するとカッコいいですよ!
— 御手杵事務局長(公式アカウント) (@otekinenoyari) November 27, 2017
槍とふれあう会https://t.co/gJxgpJNJF3#天下三名槍 #御手杵 #日本号 #蜻蛉切 pic.twitter.com/KFFdiPSNkg
蜻蛉切は「御手杵」、「日本号(ひのもとごう)」と並んで天下三名槍の一つに数えられています。
なお、「御手杵」は下総国(現在の千葉県)の名門戦国大名・結城晴朝が所持していた槍で、全長は約333cmあったと伝えられますが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失し、現存していません。
「日本号」は室町時代後期に作られた全長約322cmの槍で、正親町天皇が所持していましたが、のちに複数の持ち主を経て豊臣秀吉から家臣の福島正則の手に渡りました。
この槍は民謡“黒田節”でもうたわれており、母里友信という福岡藩の黒田家の家臣が、福島正則との酒の飲み比べの賭けに勝ち、この槍を譲られた逸話で有名です。
現在は、福岡市博物館に収蔵されています。
作 者の藤原正真とは
この蜻蛉切には「藤原正真作」という銘があり、室町時代の三河国田原の刀工で三河文殊派の藤原正真が作ったとされています。
藤原正真の詳しい経歴は不明ですが、伊勢国(現在の三重県の大部分と愛知県、岐阜県の一部)桑名の刀工村正一派や大和にも“正真”と同名の刀工がおり、同一人物であるとも、近い関係であるともいわれていますが詳しくはわかっていません。
本多忠勝は本多一族が田原城主となった関係で、若い頃に藤原正真に蜻蛉切の制作を依頼したとみられており、本多忠勝が16歳の頃には既に所有していたようです。
猛将・本多忠勝と蜻蛉切
刀や槍は戦国時代に複数の所有者の手を渡り歩くケースも少なくないのですが、この蜻蛉切という槍は猛将・本多忠勝が生涯愛用した彼のトレードマークともいえる武器でした。
本多忠勝と蜻蛉切との関りをご紹介します。
徳 川家康の危機を何度も救った蜻蛉切
本多忠勝は本多平八郎ともいい、先祖の代から徳川家(松平家)に仕えた三河武士※です。
生涯57度の戦いに出陣し、一度も傷を負わなかったという勇将で、徳川四天王の一人に数えられています。
その槍の働きで主君・徳川家康の危機を救い、天下統一を支えました。
本多忠勝は使用する戦いの場面によって柄を取り替えており、時にはかなり長い6m近くの柄を使っていたとも伝えられます。
槍も長くなると扱いづらいのですが、それをうまく操る本多忠勝の勇壮ぶりには敵も驚いたようです。
徳川家康と武田信玄が戦った“一言坂の戦い”では、本多忠勝が撤退する徳川家康の殿(最後尾)をつとめ、この蜻蛉切を手に武田軍を寄せ付けませんでした。
約6mの長い槍で奮闘する本多忠勝を見た武田方は、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭(徳川家康の兜のこと)と本多平八」と、本多忠勝を徳川家康に過ぎたるもの(もったいないほどに素晴らしいもの)として絶賛したと伝えられます。
本多忠勝は、その後の長篠合戦で徳川家康本陣に迫ってきた敵勢をこの槍で倒し、本能寺の変の際、伊賀越えでもこの槍で徳川家康を先導して窮地を救いました。
長久手の戦いでも本多忠勝は蜻蛉切を手にして鬼神のように戦い、敵方の豊臣秀吉からも絶賛されています。
※三河武士:三河国出身の徳川家康の譜代の家臣のこと。忠誠心に厚く徳川家康の天下統一を支えた。本多忠勝や酒井忠次などが有名。
蜻 蛉切は本多忠勝の晩年に切り詰められた?
徳川家康の天下取りを支えた本多忠勝は、やがて伊勢桑名城主となりました。
そして晩年には体力の衰えを感じて、蜻蛉切の柄を90cmほど切り詰めさせたといいます。
最後まで自分の力に応じた武器を求めた、武人らしい姿が垣間見えますね。
なお、江戸時代の本多家にはこれとは別にもう一つ「蜻蛉切」という槍があったそうです。
笹穂ではなく直穂ではあったものの、作者や模様が同じ「蜻蛉切」という名前だったと伝えられますが、現在は行方がわからなくなっています。
蜻蛉切と刀剣乱舞
日本刀を擬人化した付喪神の刀剣男士が登場するオンラインゲームの「刀剣乱舞」は、平成27年(2015年)にリリースされました。
以降多彩なメディアミックスの展開により、舞台、アニメ、映画などさまざまな分野に広がっています。
刀剣乱舞での蜻蛉切は、筋肉がたくましい大柄な美丈夫。
礼節を大切にする生真面目な武人です。
畑仕事にも真面目に取り組む一方、いざ出陣すれば勇ましく頼もしい存在となります。
なお、蜻蛉切の作者の藤原正真については経歴が不明な点も多いのですが、ここでは妖刀を作ったといわれた村正一派ととらえており、蜻蛉切がしばしば村正を擁護する場面が見られます。
また、蜻蛉切は「刀剣乱舞」のアニメやミュージカルにも登場。
特にアニメでは江戸時代や幕末にも姿を現しています。
おわりに
以上、天下三名槍の一つに数えられる「蜻蛉切」をご紹介しました。
蜻蛉切は「蜻蛉」が真っ二つに切れたことにちなんだ名前ともいわれており、戦国の猛将と呼ばれた本多忠勝にふさわしく、鋭い切れ味を備えた槍だったようです。
ひとたび当たれば鋭い切れ味を持つ、とてつもなく長く大きな槍。
想像するだけでも恐ろしい武器ですよね。
これを見事に振り回し、次々と敵をなぎ倒していた本多忠勝の豪快な活躍が想像できそうです。
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